ごまめの旅日記

街道等の歩き旅を中心に旅の記録を紹介します。

羽州街道を歩く 5 山形宿〜天童宿 +山寺

2023(令和5)年 9月17日(日) 晴れ 暑い

 2日目。本日は、はじめは山形駅から仙山線山寺駅まで行き、立石寺に参拝してから山形駅に戻り、街道を天童まで歩くという計画です。9月になってもなかなか気温が下がらず、本日は猛暑の中の旅行となりそうです。

 朝食はコンビニ食、6:30にホテルを出て山形駅に向かい、コインロッカーにリュックを預けて軽装で仙山線に乗車、山寺を目指します。

 

1 山形線 仙山線

 山形駅7:12発の仙台行きに乗車し、出発します。山形駅の北は線路が2本となり、1本は山形新幹線山形線のための標準軌の軌道、もう1本は仙山線と左沢(あてらざわ)線のための狭軌の軌道です。北山形駅を過ぎると左沢線仙山線と分かれて左へ行き、そして、その先、羽前千歳駅の手前で、なんと標準軌狭軌が平面交差するのです。新幹線の線路が平面交差するとは、思ってもいなかったので驚きました。これでは、速度にも列車本数にも相当影響があるのではないでしょうか。

 平面交差の結果、標準軌狭軌の位置が入れ替わり、羽前千歳駅を過ぎると仙山線は右に分かれて行きます。

 

東大手門前のJR線路 左は仙山線狭軌、右は山形新幹線標準軌

仙山線狭軌)と山形新幹線標準軌)の平面交差

2 立石寺

 やがて線路は平野から山の中に入り、30分ほどで山寺駅に到着します。駅からは立石寺の山上の御堂が見えます。駅を出て、立谷川を渡り、土産物屋が並ぶ道を進み、石段を登って根本中堂に至ります。参拝を済ませて左手に進み、日枝神社、宝仏殿の前を通って山門前に行くと、すでに参拝客が数人集まっていました。

 

山寺駅

立石寺根本中堂

山門

 山門を見るとここから奥は8:00から入山とのことです。10分ほど待ってから、山門の中に入りました。この先は長い石段。奥の院までは800段ほどです。山寺は、正しくは宝珠山阿所川院立石寺(ほうしゅざんあそかわいんりっしゃくじ)といい、860(貞観2)年に清和天皇の勅願のよって慈覚大師が開いた、天台宗の寺院です。

 根本中堂1356(延文元)年に初代山形城主・斯波兼頼が再建した、入母屋造・5間4面の建物で、ブナ材の建築物では日本最古といわれ、天台宗仏教道場の形式が保存されています。堂内には、慈覚大師作と伝える木造薬師如来坐像が安置され、伝教大師比叡山から分けたとされる不滅の法灯があります。

 石段は四寸道と呼ばれる修験者が歩いた道です。杉林を抜けると岩の絶壁を登るように続いています。仁王門をくぐり、奥の院まで登ります。それほど難儀ではありません。香川の金比羅様の石段の方が長いでしょう。(後で調べたらこちらは1368段)左側に大仏殿があり、5mの阿弥陀如来像が安置されているとのこと。右手の釈迦堂の方には、今は行くことができません。少し下がって有名な五大堂まで行きます。途中に写真によくある開山堂とその脇に納経堂があります。その先の道の上に五大堂が建っています。ここから、立谷川沿いの家々が眼下に見通せます。

仁王門から観明院と性相院を望む

開山堂と納経堂

 この後は、石段を下り、駅に向かい、926発の山形行きに乗って山形駅に戻りました。ここから本日の街道の旅のスタートです。

 

3 宮町・銅町

 公園通りの美術館前から東に進んで、旅籠町交差点を左折し国道112号線を北へ向かう。ここからが羽州街道です。国道は次の大きな交差点で左折していきますが、街道は直進し、県道22号線を北へ向かいます。昔の街道と違い、とても広い道になっています。

 街道はこの先で左折して西へ向かうのですが、どこを左折するのかは、はっきりしません。とりあえず県道22号線に従って「したら輪店」の角で左折し、富田歯科医院の大きな看板がある角で右折して北へ向かうことにします。ここからは宮町、「鳥海月山両所宮」の門前町です。両所宮は、ここから約1km先の交差点を左折したところにあります。

 この交差点からは銅町に入ります。ここは、山形鋳物発祥の地で、道端に大きなやかんのモニュメントがあります。山形鋳物の発祥は、ほぼ1,000年前の平安後期。前九年の役源頼義軍と一緒にきた鋳物職人が、山形市内を流れる馬見ヶ崎川(まみがさきがわ)の砂と千歳公園付近の土質が鋳物の型に最適であることを発見、数人がこの地に残ったことが始まりと伝えられています。

銅町

 その先で馬見ヶ崎川を千歳橋で渡ります。

千歳橋


4 長町・七浦・漆山

 橋を渡ってすぐ左手に下ります。県道22号線に合流して山形線の線路のガード下をくぐると左手に「渡辺だんご店」があり、右手には古峯神社があります。県道を北へ向かいます。

 この辺りの22号線は、歩道がなく、車通りも割と多いので、歩きにくいです。道路管理者は、歩行者のことをもっと考えてもらいたい。

 しばらくいくと左手に広々とした称念寺の境内が見えます。


 長町郵便局を過ぎて、高速道路のガードをくぐると村山高瀬川を渡ります。気温がかなり上がってきており、気がつけば汗だくとなっていました。「もみいち食堂」の先左手に「七浦小学校跡地」という石碑が建っているところがあり、その先が南出羽駅入り口です。

 漆山駅入り口を過ぎ、右手に「ライフドリンクカンパニー」の工場があるところの手前を左に入っていくと「睦児童遊園」があります。ここには「山形県農業試験場創設の地」の看板や「漆山学校跡地」の石碑「漆山陣屋遺跡」の木の棒杭が建っています。

 漆山陣屋は、江戸時代に漆山領を支配するために設営されました。1668年に奥平昌能が山形藩に入封すると、漆山領3万石は幕府領となり、1677年に漆山村に陣屋が新築されました。その後、他藩の飛び地領や米沢藩の預り地の設置など、支配者が激しく入れ替わり、それに伴って陣屋の廃止と復活が繰り返されました。直近では、1845年に秋元家が上野館林藩に移封となりましたが、村山郡に46千石余の飛び地を分領したため、その内、漆山以下36か村の支配のために翌46年に漆山陣屋が復活しました。以後、館林藩士と家族が多い時で約300名、この陣屋で暮らしたそうです。幕末に廃止。

漆山陣屋遺跡の棒杭


4 清池(しょうげ)

 その先で立谷川を渡ります。周囲の山々は、ガスに覆われて、残念ながらよく見ることができません。ここからは天童市、清池(しょうげ)地区となります。右手の清池熊野神社で休憩しました。

 その先、「芳賀タウン」の看板が並ぶ大きな交差点を過ぎると、街並みがモダンなものに変わってきます。この左手には新興住宅地の芳賀タウンが広がっています。

 

5 芳賀地区

 芳賀タウンの中心は、イオンモール天童です。ここでも巨大なイオンモールがあり、しかも、ここは、アミューズメント施設も充実している様子で、多くの買い物客を集めているようです。周囲は、モダンな新しい街が形成されています。若い人たちは、このようなところに住みたいのでしょう。

イオンモール天童

 隣接する天童南駅も、新しいモダンな作りで、イオンモールの方に向かう駅入口には将棋の駒をかたどった巨大なアーチが立っています。

天童南駅前のアーチ

 街道は、この辺りで道が失われているので、天童南駅南側のアンダーパスを潜って線路の反対側に出て、線路沿いを進みます。線路に沿って花壇が作られています。その脇を進むと線路側に芳賀一里塚跡の石碑が建っています。県道の築堤に沿って右折し、公園を右手に見て、大きな道路へ合流します。

 

6 一日町・五日町・三日町

 合流点の道路の二股の間にスペースがあり、そこに羽州街道を再現した小径が造られています。この辺りからが、かつての市井と思われますが、現在は広い道路が整備され、現代的な街となっています。城下町また宿場町の風情はほとんど残っていません。わずかに道端に一日町市神の石塔があります。

羽州街道の説明板

 東側にある舞鶴天童城がありました。出羽里見氏の流れをくむ国人が天童城を根拠に天童氏を興し、村山地域の有力者となりましたが、1584(天正12)年に最上義光に攻められ落城し、廃城となりました。

 少し行くと左手に出羽桜酒造、その先に出羽桜美術館があります。

 新しくゆったりした和風建築が両側に続く通りを行き、右手に入ると北目学校・天童学校南分校跡というのがあります。天童小学校(現在の天童中部小学校)の前身のようです。

一日町の街並み

出羽桜酒造

北目学校・天童学校南分校跡

 そこから北へ行くと東村山郡役所資料館があります。東村山郡役所は1879(明治12)年に落成した洋風建築で、1891(明治14)年の明治天皇巡幸の際に、天皇の昼食休憩に使われたとのこと。前庭に「明治天皇行在所跡」の石碑が建っています。現在の建物は、1985(昭和60)年に、落成当時の姿に復元工事されたものです。

郡役所資料館

 西へ行って街道を越えると、天童藩織田家菩提寺である三宝があります。天童藩織田家織田信雄の末裔で、豊臣氏滅亡後は大名に復帰し、上野小幡藩主となりました。その後、改易されて出羽高畠藩の藩主となりましたが、領地は村山郡にあったため、陣屋を天童陣屋に移し、天童藩を称しました。

 天童藩は城を持たず、陣屋が藩庁でした。天童陣屋は、三宝寺の北から西側に広がる田鶴町(たづるちょう)にあったと思われます。線路を越えて「御陣屋跡」とされる公園に行ってみましたが、どうも釈然としません。(後で調べたら、田鶴町公民館のあたりが陣屋の中心部だったようです。)

 天童のかつての城下町また、宿場町は、往時の風情は失われましたが、新しいモダンな街になっていて、それなりに活気が感じられます。これはこれでいいのではないかと思います。住み続けたいと思える街です。特にメイン道路の歩道が広いのがいいですね。


6 本町・東本町

 田鶴町から天童駅に行きます。ここが本日のゴールです。駅の南側には観光物産館の不思議な形の銀色の建物が付属しています。駅舎の1階には、将棋資料館将棋交流館があります。さすが将棋駒の町・天童。駅前には将棋駒のイラストやモニュメントが飾られています。

 天童市は、人口約6万1千人(県内5位)で、近年は、西部や南部に新興住宅地が開発され、山形市ベッドタウンとして発展しています。しかし、天童駅前から温泉街に至る中心市街地は空洞化しているようです。天童市は、伝統工芸品として将棋の駒作りが盛んです。江戸時代に天童藩が武士に将棋の駒作りを奨励したのが始まりとされ、現在、全国で流通する駒の95%が天童市内で生産されているとのことです。

 ちょっと疲れたので、物産館で休憩がてら昼食を取ることにします。レストランで「冷やしラーメン」をたのんだら、関東の方の「冷やし中華」と違い、普通のラーメンのつゆが冷たいものが出てきて「ああ、なるほど、確かに冷やしラーメン」と思いました。

天童駅


7 天童温泉

 駅前から今晩宿泊するホテルがある天童温泉の方へ向かいます。まだチェックインまで時間があるので、温泉街をブラつきました。天童ホテル、ホテル王将など、昭和風の大きな温泉ホテルがいくつかありますが、寂れ感があります。(昭和の風情はあります。)温泉街の北側に大きくはないが「歓楽街」風の地域があり、スナックや風俗店が並んでいます。

「水車」という高そうな蕎麦屋以外は、夕食をとれそうな場所がみつかりません。夕食は温泉街の東にある「ガスト」になりそうです。

 天童市は、芳賀タウンや一日町・五日町あたりは、現代的な綺麗な住宅地となっていますが、中心街の天童駅から天童温泉にかけては、置いてきぼりを食っているような感じがします。(ごまめの勝手な見解です。)

ホテルパールシティ天童

 舞鶴山周辺の散策は、明日にすることにして、今夜の投宿地「ホテルパールシティ天童」に向かいました。

旅の記録

スタート 山形市 旅籠町 10:10

ゴール  天童市 本町  13:50

約14km  3時間40分(休憩を含む)