令和4年8月30日(火) 曇り
街道を少し外れると、調布飛行場跡、府中の森公園など見てみたいところもたくさんあります。また、日野には新撰組にちなんだ施設が点在します。回っていると距離が伸びないので悩ましいところですが、どこまで回れるでしょう。
職場や学校に向かう人たちに混じって京王線に乗り、都会の雰囲気が色濃い仙川駅からスタートします。
その1は調布市の「布田五ヵ宿」までです。
目次
1 給田地区の旧甲州街道
始めに前回行けなかった武者小路実篤記念館に行こうとおもいますが、その前に前回通らなかった給田地区の旧甲州街道に行ってみることにします。
仙川駅から北側の国道20号線に出て、甲州街道を東へ戻ります。200mほど行くと仙川三差路という旧甲州街道が国道20号と合流する地点があります。旧甲州街道は比較的静かですが、国道は交通量が多いです。ここは、世田谷区の給田と調布市との境です。この辺りの国道20号線には、欅でしょうか、ずっと街路樹が植えられています。
給田(きゅうでん)とは変わった地名ですが、もともと「給田」とは、荘園領主が荘官や年貢運輸者などに給与した田地のことです。江戸時代には領主が村役人に給与した田地を給田と呼ぶようになりました。この世田谷区の給田は、おそらくそのような田地だったのでしょう。
仙川駅前の国道沿いに大きな山門があります。調布七福神の1つ、昌翁寺です。昌翁寺は、旗本の飯高貞政が創建し、自らの菩提寺としたものです。
付近に仙川の一里塚跡があるはずですが、確認できませんでした。
2 滝坂〜武者小路実篤記念館
仙川駅前から国道20号線を西に向かいます。少し行くと、左手にキューピーマヨネーズの工場があります。門の前にはキューポートと呼ばれるキューピーちゃんのからくり時計があります。
その先の仙川三丁目交差点の先が「滝坂」です。ここには、武蔵野台地を南北に走る国分寺崖線が走っています。仙川駅周辺は標高が高く45mくらい、それに対して調布市中心部は標高が35mほどなので、この坂で10mほど下ることになります。
滝坂を下って国道に合流したら国道を横断して反対側に渡り、国道の南側の細い道を東に戻ります。すると「入間川(いるまがわ)上流端」という表示があり、道路の下から突然、川が出現しますが、この上流は暗渠で「中仙川」と呼ばれている。入間川は南に流れ、野川に合流します。この辺りは入間町と書いて「いりまちょう」と読みます。
少し進んで右折し、さらに右折して入間川を渡り、京王線の線路をくぐります。くぐり抜けたら左折して、道なりに右折し、少し行くと「調布市武者小路実篤記念館」があります。まだ、時間が早いので開館前です。記念館の東側は滝坂から続く台地(国分寺崖線の上段)になっており、林の中に旧邸があるようです。
3 つつじが丘〜柴崎
来た道を戻って、つつじが丘駅に向かいます。なかなか大きな駅です。
駅前通りを国道に向かうと正面に体育館のような建物の寺院があります。金龍寺です。
街道を少し戻ったところに「金子のイチョウ」という大木がありますが、個人宅の敷地内で近づけません。
国道を西へ進むとケヤキ並木と市街地が同じように続きます。柴崎駅前を通過し、野川に至ります。野川はJR国分寺駅近くの日立製作所中央研究所構内の池を源流とし、二子玉川で多摩川に合流する川です。国分寺崖線は、おそらく野川が作った河岸段丘でしょう。野川には、真姿湧水群をはじめ、国分寺崖線付近の湧水が流れ込んでいます。
橋を渡った左手に調布警察署があります。
野川から少し行くと旧甲州街道入口という大きな交差点があります。街道は、ここを斜め左に入り、ここからは都道119号線となります。この先が国領宿です。
4 国領宿
道は2車線となり、交通量はぐっと少なくなります。左手にグランタワーという高層マンションがあります。その先が国領駅入口。少し進んだ右手のフェルミという白タイルのマンションが天然理心流原田道場跡です。近藤勇の兄弟弟子である原田忠司の道場です。
この辺りが国領宿です。国領宿は布田(ふだ)五ヶ宿の1つで、布田五ヶ宿は東から国領宿、下布田宿、上布田宿、下石原宿、上石原宿の合宿(ごうしゅく)で、一月を五等分して西から順に宿を務めました。間宿の性格が強く、本陣、脇本陣はなく、遊女屋はあったらしいです。
少し進むと、布田駅前交差点右手に調布不動尊・常性寺があります。不動尊は成田山新勝寺を勧進したもので調布七福神の1つに数えられます。
この北側の国道に面したところに国領神社があります。国領神社は、古く多摩川のほとりに鎮座していた第六天社と神明社を合祀し、この地に遷座したもので、境内には、遷座前からこの地に自生していたといわれる「千年乃藤」があります。
5 下布田宿・上布田宿
さらに市街地を進むと、調布駅北口交差点に至ります。調布市の中心部で、右手に西友、左手にパルコがあります。この辺りは下布田(しもふだ)宿にあたります。
調布市は人口約24万4千人で東京二十三区に接していますが、ある程度の自然を残しているため、人気のある住宅地です。1889(明治21)年に調布町と神代町が誕生、その後、1955(昭和30)年に両町が合併して調布市が誕生しました。「調布」の名前は、税として「調」にあたる特産物として布を納めていたことに由来します。他にも「調布」なる地名は存在するのですが、由来は同様だと思われます。かつては「調布」と書いて「たづくり」あるいは「てづくり」と読んでいたようです。
調布駅のあるところは、国分寺崖線下の立川面と多摩川が造った氾濫原の境目が不明瞭にある辺りになります。
北方にある布多天神社は、927(延長5)年創建の古社で、江戸時代は市が立って賑わったと言われる。
ちょっとお腹が空いたのでパルコ1階のミスタードーナツで休憩をとります。
駅前を過ぎると上布田宿に入ります。小島1丁目信号手前に小島一里塚の石碑があります。
6 下石原宿・上石原宿
この辺りから、やっと交通量が減り、静かな街並みとなります。ちょっとホッとします。
都道119号は都道229号に合流し、少し行くと西調布駅入口となります。この辺りからが下石原宿です。また、この辺りから「近藤勇」の幟旗を掲げた家が目につくようになります。
その先、中央高速道路のガードの手前に西光寺があります。
西光寺は1396(応永2)年の開基とされる寺院で、元禄期に寄進されたという三十三観音像は、技巧に優れ、4つの手を空に向かって広げ、そのうちの2つは日と月を持っており、2つは合掌しています。慶安2年に家光から御朱印を賜っており、仁王門脇には近藤勇の坐像が建てられています。
新撰組局長として知られる近藤勇は上石原村の百姓の家に生まれました。生家はここより北方の野水という地域にあります。比較的裕福な家庭だったようです。そして、天然理心流剣術を修め、幕府が募った「浪士組」に参加して京都に行き、紆余曲折を経て会津藩下の組織である「新撰組」局長となり、活躍しました。鳥羽・伏見の戦い以後は江戸に転じ、甲陽鎮撫隊として甲州街道で新政府軍を迎え撃つが敗走。流山で捉えられて板橋で処刑されました。墓所は、ここから北にある調布飛行場を越えたところにある龍源寺にあります。
中央高速のガードの向こうが上石原宿です。
7 飛田給・白糸台
西へ進むと「飛田給」(とびたきゅう)という地域に入ります。かつての荘園の給田地と考えられます。飛田給駅入口の次の交差点にある飛田給薬師堂のところから左に入るのが江戸時代初期の甲州街道です。現在は「品川街道」と呼ばれているようです。
少し進むと調布市から府中市へ入ります。旧村名は下染屋村その西が上染屋村で、調布を染めたところということでしょう。
その先で西武多摩川線の線路を渡ります。この北側に旧陸軍調布飛行場の掩体壕(えんたいごう)跡があるので、見学に行きます。線路沿いを行って国道20号線の高架の下にコンクリートのアーチ状の建造物があります。これは、飛行機を爆撃から守るための防空壕です。戦時中は調布飛行場の周囲に数多く作られたようです。
踏切に戻り、先へ進みます。不動尊前交差点の角に染屋不動尊があります。左折していくと旧多磨村の役場跡があります。この道は東郷寺通りといい、さらに南に行くと東郷平八郎の別荘後に建立されたという東郷寺があります。
西へ進むと旧常久(つねひさ)村となります。常久公園の入り口に常久村の碑が建っています。その先の東府中東交差点を過ぎると高層マンションが目につくようになります。
その2 に続きます。府中宿からです。