令和4年10月23日(日) 晴れ
令和4年10月下旬。だいぶ秋めいてきて、朝は寒さを感じるようになりました。スポーツの日を使って、泊まりがけで甲州街道の旅の続きに出ようと思いましたが、生憎、天気が悪く断念しました。そこで、電車賃はかかりますが、もう1回、日帰りで行くことにしました。
今回は、小仏峠を越えるのが第一の目標です。仕事が忙しい中、天気の良い日を選んで決行。もう少し進みたいところですが、時間の関係で、相模湖までとします。
目的地が遠いので、朝早く家を出て、新宿駅発7:21の中央線特別快速に駆け込み、高尾へと向かいました。
目次
1 高尾駅〜駒木野宿
高尾駅は、ハイカーや、何かのスポーツの大会なのか、高校生くらいの若者でいっぱいでした。駅入口の交差点角のコンビニでトイレを借りて昼食を購入し、国道20号線を西へ向かいます。
少し行くと緩い左カーブとなり、中央線の高架をくぐります。この下に南浅川を渡る両界橋があります。江戸時代から橋があったようです。ここより少し上流で小仏川と案内川が合流して、南浅川となることから「両界橋」と名付けられました。
橋を渡った先の左手に古そうな家屋があります。江戸時代から続いていた旅館「花屋旅館」の跡です。小仏関跡の除幕式の時、与謝野晶子や野口雨情が宿泊したらしいです。この辺りは「小名路(こなじ)」という地名で、駒木野(こまぎの)宿の下宿にあたります。
街道はこの先の「西浅川」の丁字路を右折します。ここに至ると流石に人通りが少なくなります。ただし、バス便はかなりあるようで、頻繁にバスが通り抜けます。小仏までのバスは、休日だけ運行するようです。
200mほど進むと左手に「高尾駒木野庭園」と書かれた木戸があります。ここは、この隣にある駒木野病院の前身である小林病院の住居兼医院として造られたもので、大正時代に建設された平屋の母屋と、昭和初期に増築された二階屋で構成されている日本建築と、約880坪の池泉回遊式庭園と枯山水庭園、露地(茶庭)があります。この辺りが駒木野宿中宿の入り口です。
隣にある駒木野病院は、静かな佇まいの精神科の病院です。
少し行くと駒木野橋跡があり、その先の右手に小仏関跡があります。駒木野橋は区画整理で撤去されたそうで、その記念碑が左手にあります。
小仏関所は天正年間(1573〜1592)に北条氏照が相模国と武蔵国の境である小仏峠に築いたものが始まりとされ、その後、麓に降ろされ、徳川家康により現在の地に移されたとのことです。箱根関所、碓氷関所とともに関東三関所の1つとされています。江戸時代の絵図には、関所の東西に門が設けられ、北側に番所が置かれていた様子が描かれています。また、東門の前には川が流れ、駒木野橋が架けられています。関守は、初め千人同心が担っていましたが、1641(寛永18)年からは、川村・佐藤・小野崎・落合の4家が専従で関守を代々引き継ぐようになりました。
駒木野宿の本陣は小仏関所の東隣にあったということですが、駒木野橋の東側でしょうか。
関所跡は公園のようになっており、園内には「先賢彰徳碑」があります。これは、幕末に尊皇攘夷運動に目覚めた落合直亮、直澄兄弟を讃えたものです。また、駒木野宿の石碑も建っています。
駒木野宿は、隣の小仏宿との合宿で、本陣1、脇本陣1、問屋3、旅籠12で、上宿、中宿、下宿に分かれていたとのことです。
その先、緩い坂を下っていくと左手にお地蔵様があり、脇に念珠坂の碑があります。さらに降ると右手に浅川小学校上長房分校の跡地でもある「みどり幼児園」があります。この辺りが駒木野宿上宿の西の入口だったようです。
右手の家屋の上を見上げると、中央自動車道の高架が見えます。前方には圏央道の高架が見えてきます。その先の荒井バス停の近くにもお地蔵様があり、また、小仏川に橋がかかり、天神梅林に入れるようになっています。
さらに進んで蛇滝口バス停のところには、蛇滝口湧水と古い旅籠風の建物があります。建物は旅籠「ふじや新兵衛」の跡で、ここには、蛇滝信仰の講中が宿泊したそうです。
その右手には「いのはな慰霊地入口」の看板があります。ここを右に入ると中央線の踏切があり、その近くに慰霊碑があります。太平洋戦争末期1945年8月5日、新宿発長野行きの列車が浅川駅(現在の高尾駅)を出発し、湯の花トンネルに差し掛かった時、米軍戦闘機の銃撃を受け、60名以上が死亡しました。その時の死者を慰霊するものです。
踏切にいくと、湯の花トンネルの他、上空には八王子ジャンクションの入り組んだ高架橋が見えます。
街道に戻り、西へ進みます。圏央道の高い高架の下には、高尾梅の里まち広場があります。その先の擁護老人ホームの入り口には蛇瀧水行道場入口の標柱が立っています。ここを入って山中に進むと蛇滝(じゃだき)があります。ここには高尾山薬王院の修行道場の一つ青龍大権現があります。
その先は湯の花梅林になっています。
さらに進むと「するさしのとうふ」という幟を掲げた峰尾豆腐店があります。「するさし」(摺指)とは駒木野宿の上宿があったところの地名です。
その先には「浅川国際マス釣場」があります。「国際」と仰々しい名前ですが、普通の釣り堀のようです。その先の日影バス停の先で道が大きく左カーブするところに「木下沢橋」(こけさわばし)があります。バス停でたくさんのハイカーが下車しています。カーブの先に城山へ向かう林道の入り口があり、ここから城山へ登る人が多いようです。街道はここを直進し、道なりに右にカーブして煉瓦造りの中央線のガード下をくぐります。
2 小仏宿
この先が小仏宿です。小仏宿は、旅籠11軒の小さな宿で、レンガのガードから小仏バス停あたりまでだったようです。左手に線路沿いには、小仏信号場跡があります。大下バス停あたりが宿の中心でしょうか。見落としましたが、少し行ったところに旅籠「鈴木藤右衛門」跡があり、そこに明治天皇小休所跡の石碑があるそうです。中央線はここから小仏トンネルに入ります。
その先の変電所を越えると小仏のバス停があります。高尾駅からのバス便はここまでです。バスの運行は、休日にはたくさんありますが、平日は運休のようです。完全にハイカーのためのものです。
バス停でトイレを済ませ先へ進みます。少し行くと左手に浅川神社と宝珠寺があります。
浅川神社境内の湧水が浅川の水源と言われています。
宝珠寺は大きな寺院です。ここにある釈迦如来像が小さい仏像だったことから小仏という地名が生じたそうです。境内には天然記念物のカゴノキがあります。
3 小仏峠
ここからは車の通れない山道となります。ただし登山道ではありません。街道です。ちょうど碓氷峠の道に似ています。前方には古い石垣が見えます。1888(明治21)年までは、武蔵国と甲斐国を結ぶ主要な交通路でした。初めのうちはある程度の幅がある砂利道ですが、だんだん登山道のようになっていきます。
30分ほど登るとやや広いところに出て、案内板があります。右手から景信山からのルートが合流してきます。直進すると廃屋があり、その向こうに石碑が建っています。三条実美の歌碑と「明治天皇小仏御小休所趾及御野立所」の碑です。ここが標高548mの小仏峠の頂上です。
古来、甲斐と武蔵を結ぶルートは大菩薩峠を通っていました。小仏峠が注目されるのは、武田信玄が八王子に進軍した際、小山田信茂率いる別働隊が進軍してからです。家康はここを主要なルートと定め、関所を置きました。明治に入ってからは、車が通れる道をということで南の大垂水峠越えが主要なルートとなりました。現在は、小仏峠の真下を中央本線がトンネルで抜けています。中央自動車道も小仏峠を越えるルートをとりました。
石碑の隣で地図を売っていた人に聞くと、かつては10件ほどの民家があったそうです。また、廃屋は茶屋の跡、さらに、城山から景信山へ通じる尾根歩きのルートに当たるので、ハイカーが多いことなどを教えていただきました。城山の方へ行ったところに展望所があるとも教えていただいたので、行ってみると、相模湖方面の下界が見おろせました。また、くっきりと「黒い富士山」を望むこともできました。(この年の富士山は、この後の10月24日から25日にかけての低気圧の接近で冠雪し「白い富士山」になりました。)
展望所から石碑の前に戻り、潰れている茶屋跡の右手のルートに入ります。潰れた屋根の脇に道標があります。
緩い下りをどんどん下ると、次第につづら折れとなり、坂が急になります。左手は深い谷となっています。谷筋へ降りているように思いましたが、そうではなく、地図をよくみると一番長い尾根筋を下って相模湖川の車道に降りていることがわかります。
4 底沢(そこさわ)
30分ほど下ると車道に出ます。甲州道中の標柱と東海自然歩道の看板がありますが、ここがちょっとわかりにくいです。街道はここから北の方角、つまり右折方面に向かうのですが、ここを右に行くと行き止まりになってしまいます。一旦、左に行って南から来る車道に出ます。ここには千木良方面を示す看板があります。ここを鋭角に右に行くと北へ行けます。
道なりに行くと中央線の小仏トンネルの出口の上を通って、中央自動車道の底沢橋梁の工事現場となります。仮設道路を進み、大きくUの字に曲がって西へ進みます。谷に沿って右カーブして自動車道の下をくぐり進むと丁字路になっています。右へ行くと照手姫ゆかりの七ツ淵をへて底沢峠へと向かいますが、街道は左です。左へ行くと底沢を渡って、今度は南に向かうことになります。
沢を渡ったところにユースホステルのような宿「Vanguard Backpackers」があります。山に不釣り合いな軽装の外国人女性を見かけましたが、ここのお客様のようです。
その先で再び中央高速道をくぐり、次にレンガ造りの中央線のガードをくぐります。ここに小原の一里塚があったようです。
くぐるとすぐ県道に突つくので、これを右へ。すると緩い坂を下り、国道20号線に突つきます。左手は底沢橋、袂に底沢のバス停があります。底沢橋の下は深い谷となっています。底沢は1kmほど下るうちに、急激に深くなっています。江戸時代では、この谷に橋を架けるのは難しいでしょう。上方から来る場合は、上流で底沢を渡って、小仏峠へ登るのが合理的なルートだったと思われます。
右折して国道を進みます。
5 小原宿
底沢のバス停から少し行くと右手に「小原の郷」という休憩・展示施設があります。展示室があり小原宿の成り立ち等についての展示があります。ここから小原(おばら)宿に入ります。
小原宿は西隣の与瀬宿との合宿で本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠7の小さな宿です。「小原の里」の展示によると、毎年11月には本陣祭りが開催されているようです。
小原宿に入ると、右手に本陣屋敷の跡である旧清水家住宅があります。神奈川県内では唯一残る本陣屋敷です。築200年と推定され、東側は兜造りとなっています。庭園に面した上段の間も残っています。
そのほか、当時の旅籠の菊屋、小松屋などが残っているようですが、どの家屋がどれなのかよくわかりません。
6 与瀬宿
小原宿のはずれの左手にグラウンドが現れます。街道は国道を行かずに、このグラウンドに降りてその向こう側の道を右に進み、国道を横断して坂を登るルートだったようです。
窪地を避けるために、一旦、相模湖東ICの南側まで登って行って戻ってきます。中央線を越えたところで右手の階段を降ります。道路が現れるので道なりに進むと桂北小学校のところで国道20号線に出ます。この辺りが与瀬宿の江戸側の入口と思われます。街道はここを右折して西へ進みます。
与瀬宿は、小原宿との合宿で、本陣1、脇本陣なし、旅籠6軒の小さな宿でした。
7 相模湖
国道20号線を横切り、相模湖に立ち寄ることにします。桂北小学校の脇を抜けて坂を降りると相模湖公園があります。天気の良い日なので、公園には大勢の人が出ていました。
相模湖は1947(昭和22)年に相模川を相模ダムで堰き止めて造られた人造湖です。相模ダムは戦後初めて造られたダムであるとともに、人造湖を〇〇湖と命名する最初の例です。1964年の東京オリンピックではカヌー競技の会場となりました。以来、関東のボート競技の拠点となっています。
相模湖の南東には、一大レジャー施設である相模湖プレジャーフォーレストがあります。相模湖公園には湖上を遊覧する手漕ぎボートやモーターボートの貸し出しが行われています。
モニュメントなどを見学してから、駅前に戻り、与瀬宿を西へ行ってみます。
駅前から500mほど進むと右手に「明治天皇与瀬御小休所趾」と掘られて石碑が建っています。この奥が少し小高くなっており、ここが坂本本陣の跡です。
街道はここを右折して進み、その先には与瀬神社の大きな鳥居があります。ここが慈眼寺と與瀬神社の入口になります。ここを本日のゴールとします。
神社までの参道を中央自動車道が横切ってしまったため、自動車道を跨ぐ大きな歩道橋が造られました。歩道橋の長い階段を登っていくと右側に慈眼寺があり、左側が與瀬神社の参道となっています。その左手には慈眼寺の墓地が広がっており、その奥に展望台があります。登ってみると相模湖や相模湖駅周辺の街並みが見渡せます。
與瀬神社の参道の急な階段を登っていくと神社の本殿があります。
本日の旅はここまでです。相模湖駅に戻り、帰途に着きます。相模湖駅には、懐かしい水色帯の211系車両がやってきました。今後は「長野色」中央線電車にお世話になりそうです。
旅の記録
ゴール 神奈川県相模原市与瀬 与瀬神社鳥居前 12:30
歩いた道のり 約16km (相模湖公園に立ち寄った道のりを含む)
歩いた時間 約4時間30分(休憩と相模湖公園に立ち寄る時間も含む)