ごまめの旅日記

街道等の歩き旅を中心に旅の記録を紹介します。

奥州街道を歩く 番外編 歌枕と被災地巡礼 3 (石巻・女川)

2019(令和元)年8月27日(火)晴れ

 3日目。本日は、大部分が被災地の訪問です。

 まず、石巻で被災した石巻南浜を訪問し、芭蕉も立ち寄った名勝、日和山(ひよりやま)に登り、石巻の中心部を訪れます。次に、女川町の被災地を訪問します。そして最後は、大川小学校跡を見学します。被災地では、物見遊山とならないように、謹んで学んできたいと思います。

 今日も、よい天気。快調に朝のスタートを切ります。

 ここでの記述は2019年8月時点でのものです。復興が進んでいるため、現在の状況は変わっていると思います。気が付いた変化については追記します。

 

目次

 

 

1 石巻南浜

 ホテルのすぐ近くのエネオスで給油し、昨日通った奥松島パークラインを東へ進みます。
 東名運河の野蒜水門を経て、国道45号線に乗り、鳴瀬川を渡って矢本地内へ。矢本には航空自衛隊の松島基地があります。
 定川を渡って石巻市内へ入りますが、ここから先が渋滞しているので、右折して南へ向かい、海岸沿いの道路を走ります。ここは渋滞こそしていないものの、大型トラックが、轟音を上げて走っています。
 そして、なんとか南浜地区へ入ります。ここは、建物がありません。震災前は、どんな様子だったのでしょうか。

 復興のための工事中のエリアの中央付近に「がんばろう!石巻」と書かれた大きな看板があります。その近くの駐車場にクルマを駐め、あたりを散策します。

 看板の隣には慰霊碑と「南浜つなぐ館」があります。

 

 まず、慰霊碑に手を合わせます。つなぐ館は、震災や復興の様子を記録し、記憶にとどめるための施設ですが、閉館中で中には入れません。脇の看板を見ると、ここ、南浜地区には、たくさんの住宅が建っており、それらが津波にのみ込まれたことがわかります。ここには、復興祈念公園が整備されるようです。

(追記:2025年5月)

 Webサイトによると、南浜津波復興祈念公園は2021年3月に開園し、「がんばろう!石巻」の看板も新しくなったようです。詳細は以下のWebサイトから

ishinomakiminamihama-park.jp

 

 振り返って北側を見ると、一段高まった土地が見えます。東へたどるとそこに日和山があります。

2 日和山(ひよりやま)

 クルマに戻り、海岸段丘を上って、石巻高校の東側から日和山へ向かいます。日和山には石巻城があったため、この辺りは大手町です。

 日和山北側の駐車場にクルマを駐め、日和山に向かいます。中心は鹿島御児神社(かしまみこじんじゃ)です。その、南西側に日和山公園があります。

鹿島御児神社


 日和山の名前は、船の出航に際し、この山に登って天候の予測を行ったことに由来します。同名の山は全国にあるようです。

 鹿島御児神社は、武甕槌命と鹿島天足別命を祀る神社で創建は不明。武甕槌命は東北地方を平定したとの言い伝えがあり、その子の鹿島天足別命が船でこの地に到着したとき錨が石を巻き上げたことから石巻の地名が生まれたとされています。巻き上げられた巻石は、住吉神社近くの雄島の脇にあります。

 また、公園のあたりは、石巻城跡でもあります。

 石巻城は、鎌倉時代に源頼朝の家人であった葛西清重が奥州合戦の恩賞として牡鹿郡を始めとする近隣の数カ所を受領し、この日和山に築いた城です。葛西氏はその後、内紛などで衰退し、1590(天正18)年羽柴秀吉による小田原仕置きで廃城となりました。

 重要な港湾である石巻港や北上川を見下ろす位置にあり、城郭建設地としては絶好の場所です。

 公園の展望スペースからは、旧北上川河口と南浜全体が眺望できます。かつては、家屋が建ち並び河口には港があったようですが、津波で被災し、現在復興作業が進んでいます。

鳥居から旧北上川河口方面

 芭蕉らもここを訪れ、「おくのほそ道」では、「数百の回船が湾内に集まり、人家はところ狭しと建て込んで、かまどの煙が立ち続けている。」とその繁栄ぶりを伝えています。「最果ての地」にこのような賑々しい港町があったことに驚嘆したのでしょう。

 道を間違えて石巻に来たことになっていますが、実際は予定のコースだったようです。隠密説をとれば、伊達藩の舟運の拠点である石巻港の視察は、外せないところでしょう。

 他の解釈では、「芭蕉は、石巻を、道に迷った末に迷い込んだ「桃源郷」のように書きたかったのだ」という説も見つけました。これもうなづけますね。

 

 このあたりの「おくのほそ道」の旅程を整理しておきましょう。

 「おくのほそ道」本文では、

「松島を発って、姉歯の松、緒絶えの橋などの歌枕を人伝に聞きながら、道に迷って石巻という港に来た。やっとのことで宿を見つけて夜を明かし、明けると袖の渡り、尾ぶちの牧、真野の茅原などをかなたに眺めながら堤を進み、登米に宿泊した。」

 と記述されています。

 曾良の随行日記によれば、旧暦の5月10日に松島を発ち、高城、小野、矢本を経由して日和山に登り、住吉神社とその前の「袖の渡り」を巡って石巻の宿「四兵」に宿泊しています。ほぼ仙石線に沿って石巻に入っています。迷っているようには見えません。

 翌5月11日は、北上川に沿って北上し、柳津を通り、登米町の権現屋敷に投宿しています。

 識者によれば、「道に迷った」のではなく予定されていたコースだったとのことです。曾良は、石巻港の視察をはじめから予定していました。また、仙台藩の領内をあちこち歩き回っていた可能性があります。金山を探していたという説もあります。「曾良隠密説」にリアリティが感じられるところです。

 

3 石巻市内

 駐車場の北側には、石巻の中心地が望める場所があります。旧北上川と中瀬と呼ばれる旧北上川の中州、中瀬にある石ノ森漫画館、旧北上川の西側の市街地などが見渡せます。

中瀬方面の眺望

 クルマに戻り、狭い急坂を下って、市街地に出ます。

 旧北上川西岸の中央という地域は、津波に襲われた地域です。だいぶ復興が進んできています。新しい立体駐車場にクルマを駐め、これも新しい物産館である「いしのまき元気いちば」の東側の旧北上川の土手に上ります。

いしのまき元気いちば

 対岸には漫画館が見えます。土手からは中瀬に渡る橋に出られないので、すぐ脇の「かわまち交流センター」の中に入り、エスカレーターを降りて、橋通りに出ます。そして、西内海橋を渡って、中瀬に入ります。

かわまち交流センター

 橋の近くには、津波の被害と復興を記録した「水辺の復興・未来館」という小さな施設があります。その南側に、UFOのような不思議な形をした石ノ森漫画館があります。

石ノ森漫画館正面入口

 石ノ森漫画館は、石巻市の北方にある登米郡石森町(いしのもりちょう)に生まれた漫画家、石ノ森章太郎氏の記念館です。震災のときは、一階の最上部まで津波が侵入し、休館を余儀なくされましたが、2012年11月17日に再開館しました。

 入口では、壁面に有名漫画家の手のレリーフ、そして、ロボコンとガンツ先生が来館者を迎えてくれます。一階は主にグッズショップです。館内の案内人は、みなサイボーグ戦士の衣装を身につけています。二階は人気連載もののコーナー、三階はライブラリーなどがありますが、時間もないので、無料のところのみ見学しました。

 漫画館を出て、旧北上川の畔に出てみると、対岸、下流方向に日和山が見えます。

 漫画館の南側には、旧石巻ハリストス正教会教会堂があります。瀟洒な美しい建物です。ここは、津波で被災し、つい先日復興を遂げたばかりです。今日は休館日で、入館はできません。

旧石巻ハリストス正教会教会堂

 旧北上川を渡り戻って、市街地へと向かいます。

 石巻市は、人口約14万6千人で、仙台市とは大きな差がありますが、宮城県内では2番目に人口が多い都市です。面積は仙台市に次いで第4位と、宮城県を代表する都市の1つです。石巻港は、日本でも有数の漁港として知られています。また、伊達政宗の港湾整備から始まった国際貿易港としての役割も重要です。

 東日本大震災で、石巻市は、自治体単位では最多の3552人の死者、420人の行方不明者を出しています。東に太平洋を望む地域にあり、合併により複雑な入江を持つ沿岸の旧町村が市域になっていたためと思われます。市民は長年に渡り復興への努力を続けてきていることでしょう。「がんばろう!石巻」の看板に込められた市民の願いが改めて心に迫ります。

 橋通りを西へ行くと2つ目の交差点であるアイトピア通りとの交差点の角に、津波襲来の地の石碑があります。

津波襲来の地碑

 そこを右折してアイトピア通りを北へ行くと、右手に、ちょっと異様な古い三階建ての洋館があります。旧観慶丸商店です。

旧観慶丸商店

 ここは、約80年前に石巻で最初の百貨店として建てられ、その後、陶器店として親しまれてきたものです。現在は市の有形文化財に指定され、展示や文化交流のための施設となっています。

 そこの交差点を左折し、西へ進みます。これが国道398号線で、石巻のメインストリートです。両側が商店街であり駅前通りまでアーケードが続いています。

 駅前通りとの交差点には、右手に歩道が広くなっているスペースがあり、サイボーグ009のフィギュアが立っています。右折して駅へ向かうと、通りには同様にサイボーグ戦士のフィギュアが点在しています。

サイボーグ009のフィギュア

 石巻駅の駅舎にも漫画のキャラクターがたくさんペイントされており、入口の上には002のフィギュア、右脇には003のフィギュアがあります。正面のステンドガラスにもサイボーグ戦士が描かれています。

石巻駅


 駅から東へ戻り、旧北上川の畔にある住吉神社へと向かいます。

 途中にある石巻グランドホテルの脇に、芭蕉が宿泊したという宿「四兵」跡の石碑が立っています。

 芭蕉も訪れたという住吉神社ですが、津波で被災し、現在修復中です。また、旧北上川の中の島にある「袖の渡り」も被災し近づけない状態です。

修復中の住吉神社

修復中の袖の渡り付近の景勝地 雄島
島の左側の岩が市の名前の由来となった巻石

 袖の渡りは歌枕です。かつては北上川を渡る渡船場があったと考えられます。義経が平泉に逃げる際に、船賃がなかったので、小袖を切って渡したという伝説があります。

 有名な歌としては

 とこも淵 ふちも瀬ならぬ 涙川 そでのわたりは あらじとぞ思ふ (清少納言)

 陸奥国へ下向する藤原実方に送った歌です。

 みちのくの 袖のわたりの なみだ川 心のうちに 流れてぞすむ (相模)

 「なみだ川」とセットで詠まれることが多く、「涙で袖が濡れる」という悲しみの表現としてしばしば用いられてきたようです。

 「袖の渡り」は義経の伝説より前に歌枕となっていたようです。すると名前の由来としての義経伝説は怪しいですね。

「袖の渡り」は阿武隈川の渡しだという説もあるようです。

 阿武隈に  霧たてといひし  唐衣  袖の渡りに  夜も明けにけり (源重之)

 この歌は、阿武隈川の渡しを詠ったものと思われます。また、重之は、藤原元方に従って陸奥国に赴任した人物なので、実際に現地を見て詠んだ可能性が高いと思われます。

 しかし、多くの「袖の渡り」の歌の作者は、現地を見ていないようです。

 歌枕は、必ずしも風光明媚な場所なのではなく、人々の想像の中で作られた幻のようなものです。芭蕉は、「おくのほそ道」の旅で、少しずつそれに気づいていき、幻を逃がさないための秘策を思いついた、というのが長谷川櫂氏の見解です。

 

(追記:2025年5月)

 Googleマップを見ると住吉神社付近の修復は終わり、袖の渡りの石碑が立っているようです。

 

 この後、旧北上川に沿って歩こうとしましたが、工事中で歩けず、アイトピア通りを通って、駐車場に戻ります。

4 女川町

 再びクルマで移動します。目指すのは、東日本大震災で大きな被害を受けた女川町です。

 国道398号線に乗り、旧北上川を渡り、東へ進みます。

 波静かな万石浦沿岸を過ぎ、牡鹿半島の付け根となっている部分を渡ると女川町です。

 被害の大きかった女川港の最深部を過ぎ、その東の宮城県漁協女川支所へ向かいます。この辺りも復興が進んできています。魚市場の建物の上階に漁協の食堂があり、ここの海鮮丼がうまいと聞いたので、昼食をとるためにここに来たのです。新鮮で、身の締まった刺身がのった海鮮丼。さすがに漁協の食堂だけあります。立体駐車場からは、女川港の最深部と、多くの人が避難したという、その奧の裏山が見えます。

女川支所から見た女川港最深部

 昼食後、女川港最深部の復興が進む地域へ行きます。お魚いちば隣の駐車場にクルマを置き、道の駅ハマテラスから女川駅に続く「レンガみち」を歩いてみます。「レンガみち」の両側にモダンな店舗が並んでいます。(「シーパルピア」というのでしょうか。)

ハマテラス

レンガみち

 ここは、完全に復興しているようで、まるで、リゾート地かアウトレットモールのような感じです。観光客も多数訪れているようです。

詳しくは以下を参照してください。

https://www.onagawa.org/pdf/panf_seapalpia03-1.pdf


5 大川小学校跡

 次に向かうのは、今回の旅の最後の訪問地、石巻市立大川小学校跡です。

 リアスブルーラインと名付けられた国道398号線に乗り、三陸から続くリアス式海岸の南端部をドライブします。カーブとアップダウンを繰り返し、海岸線に沿って左回りに東から北へと方向を変えて進みます。時折、海岸線まで降りますが、どこでもコンクリート製の大きな防潮堤が建設中であり、海面は滅多に見られません。

 雄勝(おがつ)というところまでやってきました。ここも雄勝港があり、町並みがありましたが、津波に飲み込まれました。現在は、ここでも防潮堤が建設されています。町並みが戻るのはこれからでしょう。

雄勝港付近

 雄勝は、イワシ漁が有名で、マグロやカツオ漁も盛んで、それらの加工工場も多く存在する地域です。付近からは「雄勝石」が産出します。これは硯の材料として全国一のシェアを誇ります。また、屋根材としても使用され、東京駅の屋根にも使われているそうです。

 ここからは、国道398号線は、海岸を離れ、山を越えて北上川沿岸へと向かいます。

 北上川に出たところが、大川小学校があった石巻市釜谷地区です。坂を登り、釜谷トンネルを抜けると次は下りになります。やがて、左手の下に、入釜谷の水田が見えてきます。右手には、大川小学校の裏山に登って避難した人々が駆け込んだ千葉自動車整備工場があります。そして、クルマは、大川小学校の先生と児童が目指した新北上大橋のたもとである通称「三角地帯」に到着します。

 三角地帯にクルマを置き、あたりを散策します。

三角地帯付近の北上川

 北上川は、やはり大河です。ここを津波が遡上する様は、さぞ恐ろしいものだったでしょう。

 北を見ると被災した大川小学校の校舎が見えます。その手前では、重機による作業が今日も続けられています。三角地帯から大川小学校の方へ降りていく道路の脇に、津波の犠牲者のための供養碑が建っています。

三角地帯の供養碑

 大川小学校跡の道路を隔てた反対側に駐車場があるので、そこにクルマを駐めます。けっこうな数のクルマが駐まっています。

 大川小学校の校舎は、大きな傷口を開けているように見えます。正面に供養碑が立っています。右手奥には、避難者が駆け上がった学校の裏山が見えます。説明板の図や写真から、ここにも町があり、その中に大川小学校があったことがわかります。

大川小学校跡(2019年8月)

供養碑(2019年8月)

(追記:2025年5月)

 大川小学校跡は、南浜の門脇小学校跡とともに震災遺構として整備されているようです。

 詳しくは以下のWebサイトで

www.ishinomakiikou.net

2025年時点での大川小学校跡(Googleマップ)

 

 改めて、大川小学校の被災の状況を確認しましょう。

 震災の日、地震から避難して校庭に集合したのは児童78名、教職員11名でした。津波が襲ってくることを知ったため、更に避難しようとしたはずですが、約50分間動きませんでした。そして、15時36分頃、三角地帯に向けて避難しようと動き出した児童らを、北上川を遡上してきた津波が襲いました。児童らは引き返して裏山に登ろうとしましたが、津波に飲み込まれ、74名の児童と10名の教職員が帰らぬ人となりました。(参考:「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」青志社)

 校庭に留まっていた50分間が悔やまれますが、ここでの判断は非常に重く、おいそれと批評はできるものではありません。

 未だ復興の作業が終わらない現場にいつまでもとどまるわけにはいきません。なくなった人たちの冥福を祈りつつ、帰路につくことにしました。

 帰路は、北上川の右岸に沿った県道30号線を西へ辿り、追波川河川運動公園のところで県道から分かれて国道45号線に入り、河北ICで三陸自動車道に乗ります。その後、三陸自動車道から富谷JCT経由で東北自動車道に乗り、東北を後にします。

 日本に住んでいる限り、災害とは隣り合わせです。国としての防災の仕組みを整備するとともに、一人ひとりが日常的に災害に備える必要性を改めて感じた旅でした。災害に負けない強い気持ちと助け合う気持ちを忘れずに生きていきたいと思います。