ごまめの旅日記

街道等の歩き旅を中心に旅の記録を紹介します。

奥州街道を歩く 30 平泉〜水沢宿 その2 (旧水沢市街地探訪)

その1の続きです。

水沢市街地を探訪します。

 

目次

5 国立天文台水沢VLBI観測所

 休憩後は、少し戻って水沢公園の北縁にある駒形神社を参拝します。

駒形神社

 駒形神社は、金ケ崎駒ヶ岳をご神体とする式内社です。街道の横町通りの南端、横町交差点から真っ直ぐ南へ参道が延びています。なかなか立派な神社です。

 次に、西へ向かい「国立天文台水沢VLBI観測所」へ向かいます。

 

 ここは、1899年に国際緯度観測所の1つとして開設されたもので、開設当時から所長として勤務した木村 栄(きむらひさし)が、1902年に緯度変化のZ項を発見しました。

 現在は、国立天文台に所属し、VLBI(超長基線電波干渉法)により精密な銀河マップを作るプロジェクトの基幹観測所となっています。

 敷地内には、本館や観測施設の他に、登録有形文化財となっている初代本館(1899年開設当時に建てられたもの。現在は木村栄記念館となっている。)と第2代の本館(現在は奥州宇宙遊学館となっている。)があります。
 

初代本館と木村栄胸像

学遊館(第2代本館)

BLVI観測施設のパラボラアンテナ

6 水沢市街地

 観測所から横町交差点に戻ります。歩道には「横町」の「横町組町印」のモニュメントと「心字の町 水沢」の説明板があります。

横町組町印のモニュメント

 水沢は、城下防衛のために心の字の形に、6つの町が作られていました。その後、町火消しの組織を整えるときに、6つの町に「仁・心・火・防・鎮」の「町印」が与えられました。町民の防火への思いは日高防火祭(ひたかひぶせまつり)に結集しているとのことです。

 交差点から奥州街道を北上します。両脇に商店が並ぶ、少し賑わいのある地域です。

 前方に道路を跨ぐ連絡通路が見えます。左手は地域交流館の建物、右手は商業施設の「Maple」です。

横町の連絡通路

 地域交流館の手前、日高神社の参道が始まるところには、水沢の火消しの創始者とされる佐々木佐五平の像があります。

 地域交流館の向こうはビジネスホテル「ルートイン奥州」です。歩道には楓並木が植えられ、町の中心地となっています。ルートインの交差点を右へ行くと水沢駅があります。

 次に、地域交流館のむこうがわにある髙野長英旧宅に向かいます。ここは非公開です。

高野長英旧宅

 街道に戻りルートインのその次の交差点を左折して、武家住宅資料館へ向かいます。

武家住宅資料館

 ここは、水沢伊達家に仕えた上級武家「内田氏」の住宅で、現存するのは、幕末の内田勘之丞の時代に造られたものです。敷地内には資料センターが併設されています。

 住宅を見学した後、資料センターで係員から水沢城下町の成り立ちを聞きました。水沢は、この辺りでは突出して、歴史を大切にしているように感じました。

 武家住宅資料館から西へ1分ほどの場所に後藤新平旧宅があります。

後藤新平旧宅

 後藤新平は、台湾総督府民生長官、満鉄初代総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣東京市長関東大震災後の帝都復興院総裁などを歴任した政治家です。台湾総督府に入る前は、陸軍検疫部で日清戦争から引き上げてく兵士の検疫を行いました。

 次に向かったのは「斎藤實記念館」ですが、その手前に政治家、椎名悦三郎生誕地があり、椎名の胸像等があります。

 

 斎藤實(さいとうまこと)は、海軍大臣朝鮮総督を歴任した後、五・一五事件後の難局において総理大臣を務めた軍人・政治家です。内閣総辞職後、内大臣に就きましたが、陸軍青年将校から目の敵にされ、二・二六事件で殺害されました。

 記念館は旧宅の跡地に建てられ、展示館、書庫の他に旧宅が保存されています。旧宅は、生誕地の跡に、蔵書を一般に公開するために建てられたもので、斎藤の死後、春子夫人が亡くなるまで住んでいたということです。

斎藤實記念館前の胸像

 展示館の前に斎藤の胸像、旧宅の庭には夫妻の座像があります。

 その後は、東に戻り、水沢城跡にあたる奥州市役所に向かいます。

奥州市役所

 水沢城は、伊達藩の配下の留守氏が1629(寛永6)年から幕末まで居城としていたものです。

 現在は三の曲輪にあったとされる姥杉が残るのみです。

 その向かいには「後藤伯記念公民館」があります。

後藤伯記念公民館

 これは、後藤が読売新聞社の経営を始めたとき、部下だった正力松太郎に資金を貸したことに対し、正力がその恩返しとして旧水沢町に寄進したものです。

 ここには、ボーイスカウトのハットをかぶった後藤新平の胸像と正力松太郎の胸像が並んでいます。後藤はボーイスカウト日本連盟初代総長を務めました。その裏手には「後藤新平記念館」があります。

後藤新平記念館

 ルートイン前に戻って、駅の方へ行ってみます。駅の方へは、ずっとアーケードが続いており、まずまずの賑わいです。旧水沢市域は近隣の他の地域よりも活気が感じられます。

駅前通りのアーケード

7 水沢宿

 次にルートイン前から街道に戻り、北上します。この先は大町です。左手の印章店の脇に「南枡形入口」の石碑があります。ここが宿場の入口だったようです。

 その先、「小野徳商店」の脇には「明治天皇行在所跡」の石碑があります。豪商戸坂万六の邸宅の跡だということです。

明治天皇行在所跡

 この辺りも商店街ですが、駅前より空き地が目立ちます。

 交差点を越えて先に進むと、左手の大町坂の上バス停と大町の纏を飾ったポケットパークがあります。さらに進んで乙女川を渡り、その先が柳町交差点です。本日は、ここをゴールとしましょう。

大町

 

柳町交差点から立町方面

 この先、街道は左折して立町へと進みますが、ここは直進して踏切を渡り、今夜の宿泊地、国道4号沿いのプラザイン水沢へ向かいます。こちらは、郊外型大型店舗が建ち並び、賑わいを見せる地区です。現代は、どこでも、街中より大型店舗が建てやすい郊外の国道沿いが商売の拠点となっています。

プラザイン水沢

 プラザインはなかなか快適。「GO TO トラベル」の援助もあって、格安の料金で宿泊できました。満足です。

8 奥州市について

 まだ、奥州市について触れていませんでした。

 奥州市は、2006年に水沢市江刺市と、胆沢郡の前沢町胆沢町、衣川町が合併してできた市で、人口は約11万人で県内第2位、面積は県内第3位です。

 胆沢郡は、古代からの奥州の中心地で、アテルイ安倍氏の本拠地でした。鎌倉から室町にかけては、葛西氏が支配し、秀吉の奥州仕置以降は伊達氏の領地となりました。

 産業の中心は農業ですが、南部鉄器など伝統的な工業も栄えてきました。

 奥州市の中心は、やはり旧水沢市で、かつては盛岡に次ぐ商業地でした。また、前述ように、偉人を産んだ街でもあります。

www.city.oshu.iwate.jp

 故田中角栄の薫陶を受け、長く政界で活躍してきた小沢一郎氏は、生まれは東京ですが、父・小沢佐重喜(さえき)から受け継いだ水沢を地盤としています。

 もう一つ、忘れてならないのは、MLBで大活躍中の大谷翔平選手です。大谷選手は旧水沢市域の姉体小学校出身です。水沢姉体地区は、真城地区の東、北上川に近いところにあります。出身中学校はその1でも触れた、奥州市立南中学校です。大谷選手は、その後、花巻東高校へと進学し、全国に名を知られるようになりました。

www.city.oshu.iwate.jp

 

 平安期までの蝦夷地に入り、情緒ある前沢宿、雄大な胆沢扇状地、気骨ある東北人を輩出してきた水沢と歩いてきました。名の知れた観光地の平泉と宮沢賢治の出身地として有名な花巻に挟まれ、やや地味な地域ですが、非常に味わい深い地域で、大変勉強になった1日でした。明日も期待できそうです。

旅の記録

スタート 平泉町平泉駅前 8:20

ゴール  奥州市水沢柳町 16:20

歩いた道のり 約20km   歩いた時間 約8時間

(昼食休憩及び国立天文台等への立ち寄りを含む)