2013年10月には、品川宿から川崎宿までを歩いたので、この記録を公開します。
節操がないようですが、別にアップする「旧街道歩き旅のススメ」の参考のためのものです。こちらもあわせて読んでいただけると幸いです。
すでに11年近くの月日が経っているので、現在は様子が変わっているかもしれません。(悪しからず。)
品川宿から川崎宿まで約11kmです。ちょっと長いですが、ずっと京急線が並行していますので、疲れたらすぐ、近くの駅から帰宅できます。また、多くの駅の近くに、懐かしい匂いのする商店街があります。ここを歩くだけでも気持ちが温まります。数ある旧街道の中でも屈指の区間だと思っています。
平成25年10月13日(月)晴れ
品川宿(京急線新馬場駅)〜川崎宿(京急線川崎駅)
南品川
京急新馬場駅を降りて、旧東海道にでます。出たところに、ネオンサイン、看板作成のトップメーカー「昭和ネオン」の本社ビルがあります。東海道を南下します。この辺りは昔「三岳神社」があったことから「三岳」と呼ばれているとの表示板がありました。
その先に三島市から送られた街道松があります。
さらに、その先、右手の「定行寺」山門の前に「城南小学校創立の地」の碑があります。その先に現在の「城南小学校」、看板が江戸時代風です。
青物横丁
品川寺(ほんせんじ)
海雲寺
そのとなりに「海雲寺」があります。海雲寺は千躰荒神を祀る寺として知られています。千躰荒神は天草にあったものを鍋島藩が江戸の藩邸に持ち込み、それが勧進されたものとのことです。正面に「平蔵地蔵」と「電燈講」と書かれた毘沙門天のような石像をいただいた塔が建っています。本堂には、品川区の文化財に指定されている「千躰荒神堂奉納扁額」があります。また、天井には、纏が描かれています。
鮫洲
さらに進むと鮫洲の商店街に入ります。右手に鮫洲駅入口。商店と住宅が入り交じった地域です。ちょっと左折してみるとすぐ運河に突き当たります。江戸時代は、この辺が海岸線だったのでしょう。しばらく行くと、右手に薄緑色のそば処「吉田家」があります。1856(安政3)年には、存在していたという老舗のそば屋です。
立会川と坂本龍馬
少し行くと、京急立会川駅入口となります。浜川橋の手前を右折して、駅の方へいってみます。この通りは、幕末、坂本龍馬が通った道といわれています。それは、当時、現在の国道15号線の西側、浜川中学校のあたりに土佐藩の下屋敷があり、龍馬は、ペリー来航の動乱期にここ土佐藩の下屋敷で過ごしました。通りを反対方向(東)へ行き、勝島運河に出た辺りに土佐藩の砲台跡が発見されたため、おそらく、龍馬は警備のために毎日のようにこの砲台に通ったのではないかと見られています。そこで、立会川駅前に坂本龍馬の像が建てられ、立会川商店街にある「カフェ・ロティ」という店では、足の形をした「龍馬の足跡パン」が売られています。
東海道が立会川を渡る橋が「浜川橋」です。ここは、鈴ヶ森で処刑される罪人が家族と別れを惜しんだことから「涙橋」と呼ばれていました。(奥州街道南千住手前の泪橋と同じです。)
鈴ヶ森の刑場跡
大森海岸
その先で東海道は国道15号線と出会います。左手からは高速道路が頭上を延びてきて国道の中央上部に合流します。この先しばらくは国道の端を歩くことになります。すぐ左手に「品川水族館」の入口があります。その先右手に、京急大森海岸駅。左手奥は「大井競馬場」です。
さらに先に進むと、左手に明治30年創業の天ぷらの老舗「天仲」があります。その奥は、平和島です。
美原通り
平和島の方へ行く道路との交差点を過ぎると、東海道は国道から左に分かれて行きます。ここが「美原通り」です。北原、中原、南原の3つを合わせて三原と呼んでいたが、現在では「美原」の字をあてています。江戸期には、ここに「間の宿」があったそうです。
左に入るとすぐ、左手に大森スポーツセンターがある。ここには、かつて「大森魚市場」があったそうです。その先には、名物の「大森和中散」(旅の常備薬)を売る店があったと伝えられています。
さらに、環状7号線を横断し、内山側に架かる内山橋を渡り、羽田への街道を分け、再び国道と合流します。左手に大森警察者が、少し先の右手には京急大森町駅があります。
梅屋敷跡
国道脇の歩道を南西方向に向かう。この辺りは東蒲田です。右手に京急線の高い高架が見えます。前方にも京急空港線の高い高架が見えてきます。右手が京急蒲田駅です。京急蒲田駅は2010(平成22)年に高架工事が行われ、3層の壮大な駅になりました。これにより、かつては国道15号線に存在した空港線の踏切がなくなりました。
この辺りは、太平洋戦争末期に大規模な空襲にあったため、戦後再開発されたとのことです。蒲田の中心はJR蒲田駅。JR蒲田駅と京急蒲田駅の間が繁華街ということです。
国道沿いをずっと歩き、京急雑色(ぞうしき)駅前を通過、やがて、国道は、ゆるい登りに差しかかります。六郷橋が近づいてきました。坂を登らずに左手に進むと交差点があります。そこから歩道橋を渡って六郷橋の歩道に出ます。一気に視界が開けます。
六郷橋は、東京都大田区と神奈川県川崎市との境の多摩川に架かる国道15号線の橋です。江戸時代1600年に家康が橋を架けさせました。しかし、度重なる洪水で橋が流され、1688(貞享5)年以来架橋せずに「六郷の渡し」が設けられました。広重画東海道五十三次の「川崎宿」はこの渡しを描いたものです。
その後、1874(明治七)年に左内橋が架けられ、以後何回か架け替えられています。現在の橋は1984(昭和59)年に架け替えられたものです。1925(大正15)年の旧六郷橋の親柱や橋門が残されています。
六郷橋を渡ると神奈川県ですが、かつては、まだ、武蔵国でした。渡り終わったところの堤防の上に「明治天皇六郷渡御碑」があります。明治元年の明治天皇の東京行幸の際に六郷の渡しを船橋で渡ったことを祈念して建てられたものです。国民に天皇印象づける手立ての一つとして、六郷渡が錦絵となったようです。
京急大師線の上を渡り、斜め右手に曲がって国道15号線の下をくぐるとそこは、川崎宿の入口です。右手に万年横丁・大師道も石碑と万年屋跡の案内板が建っています。万年屋は、東海道と大師道との分岐点にあり、また、奈良茶飯が評判となったため、本陣以上に栄えたらしいです。
川崎宿は、東海道開設当初は存在しなかったのですが、品川と神奈川の間が長いので、1623(元和6)年に設置されました。最盛期には旅籠72軒、江戸口から京口まで約1.5㎞ありました。本陣は、田中本陣、佐藤本陣、惣兵衛本陣の3箇所でした。
少し行くと右手に「田中本陣跡」の標識があります。説明によると、田中本陣は、3つの本陣の中では最も古く、1704(宝永元年)に当主となった田中休愚は、六郷の渡しの運営を川崎宿の請負として宿の財政を立て直すとともに、幕府を論じた「民間省要」を著し、幕府に認められ代官となったということです。
左手には、2013年10月に開館したばかりの「東海道かわさき宿交流館」があります。ここは、各種展示物の他、イベントを行っています
その先、右手に「砂子の里資料館」。その先の「砂子1丁目」交差点の「牛どんらんぷ亭」のところが「中の本陣跡」です。「中の本陣」は、「惣兵衛本陣」のことで、3つの本陣の真ん中なのでそう呼ばれていました。江戸時代の中期には廃業していたとのことです。「向かいのセブンイレブンのところが「問屋場跡」、約30人の役人が昼夜交代で勤務し、繁忙を極めたとのことです。
「砂子1丁目」の交差点を右に入ると京急川崎駅です。本日の旅はここまでとします。