令和5年11月11日(土) 曇り 時々晴れ 時々小雨
11月の連休を使って、一気に、山形盆地の最北端まで詰めることにしました。3日で楯岡宿から金山宿まで行きます。
しかし、東北各地、特に秋田県と岩手県で熊の出没が相次ぎ、人的被害も出るようになっています。町場はともかく、山間部の通過は危険を伴います。仕方なく、尾花沢と舟形の間の猿羽根峠は列車で、新庄と金山の間の上台峠はバスで通り抜けることにしました。
さらに困ったことに、しばらく夏のような日和が続いていたにもかかわらず、急に寒気が入って、この連休中は日本海側を中心に時雨やみぞれ、高所では雪に見舞われるとの予報が出ています。久しぶりに東北の厳しさの洗礼を受けることになりそうです。
1 山形新幹線
山形新幹線は、福島から先は、在来線特急以上に鈍行です。停車駅が多い上に在来線と共用で、しかも単線区間が多いのです。データを示すと…、山形新幹線だと福島〜新庄間約150kmで約2時間かかります。それに対して、東北新幹線だと福島〜八戸間約360kmを仙台駅での待ち時間を含めても約2時間です。山形新幹線区間に入ると速度は半分以下になるということです。山形まで東京から1本で行けるのは確かにメリットですが…。
2 再び楯岡宿
予定通り9:30に村山駅に到着。夏のような暑さだった2ヶ月前と打って変わり、冬の到来を思わせる気温と今にも降り出しそうな空模様です。裏地付きの冬用のジーンズをはいてきて正解でした。
駅前交差点から羽州街道に入り、北上します。楯岡宿は寂れ感が漂いますが、稀に山形銀行楯岡支店のような、モダンな建物が混じります。前回でも述べましたが、重厚な建物の「やまか呉服店」手前の駐車場が脇本陣・江戸屋旅館跡で、イザベラ・バードはここに宿泊したようです。向かいの村山郵便局は楯岡本陣・笠原茂右衛門家の跡です。
線路の向こう側には最上徳内記念館がありますが、行っている余裕がありません。最上徳内(もがみとくない)は、楯岡出身で、1781(天明元)年に江戸へ出て数学者の本多利明に師事し、1785年に師の代役として幕府の蝦夷地調査団に加わります。以後、蝦夷地に渡ること9回、蝦夷通として幕府に仕え、蝦夷地の調査、アイヌとの交易、ロシアとの交渉などを手がけました。
少し行くと右手から山が迫り、県道が切り通しになっているところがあります。左手に巨岩が露出しており、その上に愛宕神社があります。この愛宕神社は「火伏せ神」として信仰を集めているとのことです。巨岩に根を絡めるようにしてケヤキの大木が生えています。また、道路側に楯岡城最後の城主である「楯岡城主多田義賢の碑」が立っています。
その先の右手、スズキ美容室と道路の間にも巨岩の露出があり、その上に湯殿山の石碑が立っています。そこを東に入っていくと北楯公園の駐車場があり、北側の幼稚園のような建物の前に楯岡城があった楯山の案内図があります。楯岡城は1208(承元2)年に前森氏によって築城されたとされています。その後、最上義光の弟の楯岡光直が城主となりましたが、跡目争いが元で最上氏が改易となり同時に楯岡城も廃城となったとのことです。
街道に戻り、北上します。湯殿山の碑がある岩山の国道沿いには「大市姫神」が祀られています。
緩やかに上っている県道120号線を行くと二日町から鶴ヶ町に入ります。北町に入ると、左手に村山産業高校と楯岡特別支援学校があります。
3 居合神社
その先で大旦川を渡ると、左方に赤い鳥居が見えてきます。特に看板もないところを左折していくと「村山居合振武館(いあいしんぶかん)」という建物があります。これは、市の施設で、居合のための武道館のようです。その先の右手に奥に続く参道があり、そこに居合神社があります。参道の西側には竹駒稲荷神社の小さな祠があります。その傍らには「塩川寶祥先生顕彰碑」が建っています。居合神社は居合道「林崎夢想流」の始祖とされる林崎甚助・源重信(はやしざきじんすけ・みなもとしげのぶ)を祀る神社です。林崎甚助は戦国期から江戸初期の剣客で、父の仇を打つため抜刀術の修行を重ね、19歳の時に本懐を成就。その後、居合術を全国に広め神格化されました。塩川寶祥は、2014年に他界した剣士で、居合道や空手道にも精通していたとのことです。
街道に戻って北上を続けます。すぐ先の左手には、板塀で囲まれた広い敷地の屋敷があります。林崎関連の家でしょうか。
4 本飯田(もといいだ)宿・土生田(とちうだ)宿
さらに北上を続けます。擶山(たもやま)の集落を抜け、1kmほど行くと、国道13号線と合流します。右手の廃業したドライブインの先に、「尾上の松」という古木があります。元は夫婦松だったらしいですが1本は枯れたようです。
少し行くと、街道は右手に分かれ、本飯田の集落に入って行きます。本飯田宿は間の宿で、北側の土生田宿と半年交代で馬の継立を行ってきました。継立は、代々、安達家が担ってきたとのことです。
宿内に入ると、大型の古い屋敷が目に付きます。国道から分かれて700mほど行くと沢の目川を渡りますが、その手前右側のコンクリート塀があるお宅が、安達家のようです。川を渡るとすぐ六面幢を納めた祠があります。この辺りが本飯田宿の中心部だったようです。
先に進んで、蕎麦屋「鳥越」の手前の切り通しあたりからが土生田(とちうだ)宿です。緩い坂を下って、田んぼが開けたあたりから鳥海山がよく見えるらしいですが、本日は雲しか見えません。イザベラ・バードがここから見える鳥海山の眺望を絶賛したとのことです。
その先に土生田の集落があります。袖崎駅入口を過ぎ、袖先郵便局の先の左手に四脚門を備えた板塀に囲まれた民家があります。ここが馬立を担っていた家かもしれません。土生田は1668年からは天領、1856年からは松前藩の領地となったとのことです。西側には田んぼが広がり、米がよく取れそうです。
集落が途切れ、田んぼの中を進むと国道13号線に突き当たります。ここを地下道で越えて進むと、尾花沢へ向かう羽州街道と大石田へ向かう「へぐり道」との追分があります。「清河八郎お休み茶屋」との説明版もあります。往時は茶屋があったのでしょう。芭蕉は尾花沢から立石寺へ向かい、帰路は、ここから大石田の方へ向かったと思われます。私も、羽州街道を外れて、大石田に向かうことにします。
この先は集落が途切れるので、熊よけの鈴を鳴らしながら、周囲に気をつけて進むことにしました。県道189号線と合流するとすぐ、大石田町に入ります。
5 大石田川船役所跡
大石田町は人口約6000人。かつては最上川の水運で栄えた町です。最上川の大石田より上流には所謂「最上川三難所」があるため、酒田からの大型船はここまでしか上れません。そのため、大石田が物資の一大集積地となりました。最上川の右岸は天領で川船役所が置かれました。対岸の横山地区は新庄藩の飛地でした。
また、近年の調査で、平安時代の多賀城と秋田城を結ぶ街道の宿駅として記録に残る「野後駅」が、町の北部、最上川と野尻川の合流点にある「駒籠楯(こまごめたて)跡」であることが確実視されています。
県道を辿ると田んぼが広がる平地から丘陵地に入って行きます。右手はゴルフ場です。山を削って道を通したので「へぐり道」と呼ばれたらしいです。その先で最上川の辺りに出ます。 最上川に沿って1kmほど行くと、五十沢川との合流点の近くに「さみだれの瀬」との看板があります。さらに川沿いの道を進むと、国道347号線のガードの下をくぐり、さらに進むと朧気川(おぼろげがわ)を渡ります。橋を渡って土手を降り、土手の下を進むと金刀比羅神社があります。さらに進むと前方の土手の上に土塀が見えます。これが川船役所跡です。土手に上って進むと、土手の上に江戸時代風の白壁が続いています。川船役所があった頃の塀蔵を再現しようとしているのでしょう。中程に門が作られています。役所の大門の再現だと思います。
大石田の舟運は、1672(寛文12)年に河村瑞賢が大石田を最上川の舟運の拠点として位置付けて以来、発展を続けました。その後は、酒田と大石田が最上川の舟運を独占していたようです。しかし、1700年頃になると、他地域の河岸場が権利を主張するようになり、一時、大石田河岸は衰退に向かいました。その後、幕府が政策を転換し、最上川の舟運を円滑に行うために1792(寛政)年に大石田に川船役所を設けて、幕府が直接、川船統制と差配を行うようになりました。以後、大石田は復活し、明治期まで隆盛しました。
最上川から1本北側の道、県道30号線は、かつての大石田河岸の中心部で、荷問屋や船主の館が軒を連ねていた場所かと思います。現在も当時の風情が残っている感じがします。現在では、運輸交通の手段としての舟運は、完全に過去のものになってしまい、日本人の記憶から飛んでいますが、もっと注目されるべきだと思います。最上川の水上バスなんて作っても乗る人はいないでしょうかね。
歴史資料館に行きたかったのですが、通り過ぎてしまいました。30号線の側にある新庄信用金庫の脇を入って行けばよかったようです。
6 大石田駅
右折して県道121号線を北へ向かいます。ここが大石田の中心の商店街のようですが、商店はそれほど多くありません。左手に役場の建物が見えます。新しいモダンな建物です。そこから左に緩くカーブして段丘を登り、次に右へ大きくカーブすると大石田駅に至ります。
大石田駅は活気がありました。駅舎は変わったデザインです。階段状になっていて屋上に上ることができます。活気があるのは、東北でも一、二を争うほど人気がある銀山温泉へ向かうバスが発着するからと思われます。自由通路を抜けて尾花沢口へ行ってみると、かつての山形交通尾花沢線の線路跡と思われる道路があります。尾花沢線は、1926(大正15)年に大石田駅と尾花沢駅を結ぶ鉄道路線として開業したのですが、モータリゼーションの波に押され1970(昭和45)年に廃線となりました。グーグルマップの航空写真を見ると、今でも線路跡が残っています。
7 尾花沢宿
尾花沢市は、人口1万3千人ほどの都市で、羽州街道の宿場町として発展し、江戸時代には陣屋が置かれていました。「花笠音頭」といえば山形市を思い起こしますが、大正中期に尾花沢で土木作業時に歌われた土搗歌(どつきうた)が起源とされています。
養泉寺に行くまで気がつかなかったのですが、大石田の駅周辺も尾花沢の市街地も丹生川(にゅうがわ)の河岸段丘の上に立地しています。
大石田と尾花沢は合併しても良さそうですが合併しませんでした。合併協議会がつくられ「はながさ市」となる予定だったのですが、最終的に大石田が合併を拒否したようです。尾花沢に吸収されるのを嫌がったらしいです。(気持ちはわかります。)
県道28、120号併用道路を北へ進みます。街道沿いに南から上町、中町、北町と並びます。黄昏時の街歩き、郷愁を誘います。
杵屋菓子店の角を左折して尾花沢駅跡に向かいます。正面に黄色の建物が見えてきます。かつては「ダイエー尾花沢店」だったらしいですが、現在は「パレットスクエア」という商業施設で、南側は尾花沢バスターミナルとなっています。
建物の南側は大きなスペースがあって、尾花沢タクシーの営業所があります。この辺りが、かつての尾花沢駅だったのでしょうか。
街道に戻って北へ進むと商店街となります。左手奥に念通寺があります。念通寺の本堂は、1697(元禄10)年に豪商・鈴木八右衛門(俳号は清風)が寄進したものです。
北へ進み、右手のセブンイレブンの駐車場付近が本陣跡です。その北側の山形銀行がある交差点が中町交差点で、羽州街道は、ここで左折し、北町には入らず、梺町(ふもとまち)に向かっています。左折して行くと右手に芭蕉が投宿した鈴木八右衛門邸の跡があります。
交差点の右側は、今晩の宿所である加登屋旅館です。交差点を左折しないで北へ進むと、左手に「芭蕉・清風歴史資料館」があります。
尾花沢は、落ち着いた風情がある街だと感じました。しかし、地元の方には申し訳ありませんが、大石田も尾花沢もかつての賑わいを失っているのではないかと思います。銀山温泉だけでなく、大石田、尾花沢にも多くの人に注目してもらいたいと思います。
「芭蕉・清風歴史資料館」の前には、芭蕉の像が立っています。また、館内には、芭蕉の「奥の細道」行脚の記録等の展示があります。
芭蕉は、旧暦の5月17日(新暦6月29日ごろ)に薙刀峠(なぎなたとうげ)を越えて尾花沢に到着し、鈴木清風宅に投宿します。翌日から養泉寺に宿舎を移し、5月27日まで尾花沢に滞在します。この間、「すずしさや」と「おきふしの」の2巻の歌仙を巻いています。芭蕉については後ほど触れたいと思いますが、実態はプロの「歌仙師」だと思います。和歌の師匠であるとともに、歌仙を巻くことを生業としていたのではないでしょうか。芭蕉の歌仙の腕前は傑出しており、誰もが芭蕉先生と歌仙を巻くことを楽しみにしていたのでしょう。
資料館を出て、養泉寺に向かいます。中町に入った羽州街道は、中町十字路で左折し西へ向かいます。そして、300mほど行って突き当たりを右折し、梺町に入ります。直進すると尾花沢小学校に突つきます。ここにはかつて代官屋敷がありました。その手前を左折すると尾花沢観音・養泉寺があります。芭蕉らはここに7泊しています。養泉寺は丹生川が作った段丘の縁に立地しており、北側と西側には低地が広がっています。涼やかな風と風景が芭蕉と曽良の疲れを癒したことでしょう。
この後、再び市街地に戻り、辺りを散策して加登屋に向かい、この日の旅を終えました。
旅の記録
スタート 村山市楯岡五日町 9:30
ゴール 尾花沢市中町 14:45
歩行した道のり約14km(大石田経由) バス乗車3km
5時間15分(大石田から尾花沢へのバス乗車時間も含む)