ごまめの旅日記

街道等の歩き旅を中心に旅の記録を紹介します。

羽州街道を歩く 8 尾花沢宿〜新庄宿

令和5年11月12日(日) 曇り時々晴れ間 後小雨

 2日目。本日も昨日と同じような寒い曇天となりそうです。

 本日のゴールは新庄ですが、このところの熊の出没騒動のため、熊が出没しそうな舟形町手前の猿羽根峠は、鉄道で越えることにします。そのため、加登屋旅館さんには無理言って、朝食を6:30からにしていただき、早めに宿を出発しました。

 

1 荻袋・野黒沢

 芦沢駅9:39の新庄行きに乗るために、加登屋を7:30前に出発しました。中町十字路から西へ行き、梺町に入ります。突き当たって右折し、坂を下ります。尾花沢小学校手前を左折して段丘を下り、田んぼの中に出ます。県道120号線と合流して国道347号線を越え、丹生川橋で丹生川(にゅうがわ)を越えます。丹生川は宮城県境の船形山を水源とし、丹生川橋の西3kmほどで最上川に合流します。

 

尾花沢小学校 尾花沢陣屋跡

 

国道347号線を越える 後は月山方面


 丹生川橋を渡ると荻袋の集落に入ります。ほぼ直線の県道を2kmほど進み、野尻川を渡ります。その先は野黒沢の集落です。この集落は、元は北方にある諏訪神社門前町だったのが、街道が通じてこちらに移ってきたのだそうです。やがて、国道13号線バイパスのガードをくぐり、その先で、国道13号線を横断すると、その先には山形線の踏切があります。

 

野黒沢の集落を抜ける

2 芦沢

 その先は芦沢の集落です。畑も混じった長閑な集落内を進むと、大石田方面から来る道と出会います。芭蕉は新庄に向かうときは、ここを通ってきたのでしょうか。

 その先には、芦沢山種林寺という看板がありますが、そこは旧芦沢小学校の跡のようです。

 花笠ラインとの交差点を過ぎ、集落の中を行くと、道は緩く右にカーブして下って行きます。左手に「芦沢折部邸宅跡地」の白い標柱があります。その先には、「稲荷神社毛倉館入口」の標柱があります。芦沢折部とは最上義光の配下で勇名を馳せた人物です。

 

芦沢折部邸宅跡

 街道はさらに下り、段丘に囲まれた低地に出ます。左手には最上川の堤防が見えます。右手に「大海の地」との白い標柱があります。この低地は、最上川が氾濫してしばしば湖のようになった土地だということです。

 

大海の地

 その先は、登りになり大海を巻くように登っていく。左手に「明治天皇行在所」の白い標柱があります。藪の中に入ると記念碑があるようです。

 


3 芦沢駅から舟形駅

 ホテルグリーンウッドのところから500mほど段丘の上の道を行くと芦沢駅に着きます。駅舎は反対側ですが、跨線橋がこちら側まで伸びていて、ホームに行くことができます。駅舎のある方(東口)の前には民家があり、近くを国道が走り、道の駅もあります。待合室で待っている間に、ちょうど薄日が差してきたので、汗で湿ったベースレイヤーを乾かしました。

 

芦沢駅駅舎

 9:39発の新庄行きに乗り、舟形駅へ向かいます。名木沢宿を通り過ぎ、猿羽根峠はトンネルで抜けます。徒歩での峠越えを楽しみにしていたので、ちょっと残念。あっという間に舟形駅に着きました。

 

 


4 舟形宿

 舟形駅には「観光物産センターめがみ」というのがあります。名称は、町内にある西ノ前遺跡から出土した土偶で国宝である「縄文の女神」にちなんだものだそうです。

 

観光物産センターめがみ

 舟形町は、人口5千人で、小国川が最上川に合流する地点にできた町です。小国川は鮎の名所として知られています。羽州街道の他、東へ向かう最上街道、西へ向かう舟形街道が交わる地点であり、かつ、猿羽根峠と小国川の渡しに挟まれており、交通の要衝となっています。新庄藩との藩境にあることから口留番所が置かれていました。

 駅前は、昭和の香りが漂いますが、それなりに活気が感じられます。駅前通りを東へ進み、まず、国道13号線を越えます。右手にやや古めかしい大きなJAの建物があります。さらに進んで羽州街道に出ます。羽州街道は本町通りと呼ばれていて、角にこれも昭和風の中央公民館があります。一旦、街道を南に戻って、猿羽根峠を越えてきたつもりで歩きます。

 

舟形町中央公民館

 国道から本町通りが分かれたあたりが宿の入り口です。少し行くと右手の高台に八幡神社があります。左手には合祀殿というのがあります。この手前に新庄藩番所があったらしいです。さらに行くと、右手奥に大きな銀杏の木がある施設がありますが、デイサービスの施設のようです。

 

八幡神社

 さらに行くと右手にヤマザキデイリーストアがあります。ここが舟形本陣の跡です。そして、駅前通りとの交差点である中央公民館のところに戻ってきました。ここは、街道の追分になっていて、右折していくと、中山峠を通って、奥州街道吉岡宿に抜ける出羽街道中山越。左折していくと出羽三山の宿坊町・手向宿に至る舟形街道です。右折して行くと、正面に「猿羽根山地蔵大菩薩本尊安置所」と刻まれた石碑を置く常泉寺があります。街道のその先は、小国川に突着きます。河原は「チャイルドランド」になっています。街道は、この先の渡し場から船で小国川を越えていました。

 

本陣跡

 

小国川の渡しがあった辺り


5 欅坂(くぬぎさか)

 川に沿って西へ行って国道に出て舟形橋を渡り、小国川の対岸に行きます。少し行くと、国道から左に分かれて段丘の坂を登ります。この坂の名は「欅坂」と書いて「くぬぎざか」と読ませるそうです。この辺りでは、戊辰戦争の時「舟形口の戦い」がありました。

 この先、民家が途絶えがちなので、再び熊よけの鈴を鳴らしながら進みます。光生園という障がい者支援施設の脇を通り、県道のガードをくぐると陸羽東線の踏切があります。線路は段丘上の開けたところを長閑に通っています。小国川沿いは昔も今も奥州街道の方へ抜ける道筋となっているのです。

 

陸羽東線

 さらに行くと「三光堰」という水路を渡ります。左手を見ると線路を越える水路橋が見えます。「三光堰」は新庄藩が福寿野地区の新田開発のために開削したもので、明治以降改良が進み、現在も小国川右岸地域の田んぼを潤しています。

 その先で街道は国道13号線と合流します。合流すると間も無く新庄市の鳥越地区に入ります。山形線陸羽東線と国道13号が狭い谷間を抜けています。


6 鳥越(とりごえ)

 その先にある南新庄駅は陸羽東線の駅で、山形線は止まりません。ここを過ぎると旧街道は国道を離れて、右手に分かれて行き、鳥越の集落に入ります。この辺りは東側の山地に連なる丘陵地で、緩やかにアップダウンしています。鳥越は鳥越氏領地だった場所で、北東にある鳥越館跡が鳥越氏の居城でした。鳥越館は天正年間(1573年〜1592年)に鳥越九右衛門により建てられたものと推測されています。鳥越氏は、はじめ清水氏に仕え、後に最上氏に属しました。

 集落の北縁近く左手に清水氏の菩提所である如法寺があります。その先、右手に入ると鳥越八幡神社があります。ここは、新庄市街地を見下ろす高台となっています。

 鳥越八幡神社は、はじめ鳥越義宣が鎌倉の鶴岡八幡宮勧進して新庄市北方の荒小屋に建立(現在の太田八幡神社)したのですが、その後、戸沢定盛が1638(寛永15)年に、鳥越館の跡地である現地に移したものです。荘厳な雰囲気のある立派な神社です。境内の銀杏の大木があり、黄色に色づいた葉を落としていました。

 

鳥越八幡神社

 街道に戻り、坂を下って平地に下ります。新田川を渡り、国道47号線国道13号線と横断する。右手に大きなブナの木が見えます。鳥越の一里塚跡です。


7 金沢(かねざわ)

 新庄市人口約3万2千人の最上地方の中心都市です。新庄城の前身の沼田城は、15世紀に築かれましたが、湿地帯の中にあったため、清水城、鮭延城などにより治められていました。1622(元和8)年に戸沢氏がこの地に転封されてやってくると、手狭な鮭延城の代わりに沼田城周辺に城下町をつくり、ここを居城としました。その後、新庄は城下町として発展しました。幕末は、新庄藩が新政府軍方についたため、庄内藩の攻撃にあい、新庄城は落城しました。明治になり新庄県がつくられますが、すぐに山形県に併合されます。

 少し進むと、右手に「柳の清水跡」があります。宿の入口の街道沿いに清水が湧き出していて、多くの旅人が喉を潤したそうです。芭蕉曽良もそうしました。そこで、ここには芭蕉の句碑があります。「水の奥 氷室尋ぬる 柳哉」この句は、新庄に到着し、渋谷風流亭で歓迎の宴が催された時に、芭蕉が風流に送った句です。

金沢清水跡

 さらに進むと前方を山形線に遮られます。線路に沿って北へ進み、線路の下をくぐる県道310号線脇の歩道を通って線路の西側に出ます。この先は県道34号線が旧羽州街道です。ここからは金沢(かねざわ)町である。

 左手には圓應寺があります。紅葉が美しい寺院です。寺の前にはふくよかな地蔵さんがあります。右手の大友米店の裏には福鐘稲荷のイロハモミジがあります。商店と住宅が入り混じった街中を行き、枡形川を渡ります。その手前左手に接引寺があり、その入り口に「まかど地蔵」があります。元は柳の清水のところにあったとのことです。飢饉による餓死者を供養するために建立されたものです。

福鐘稲荷のイロハモミジ

 枡形川を渡ると鉄砲町です。右手、川のほとりに瀟洒なお堂があります。亀棲山長泉寺です。ここには以下のような伝説があります。

 新庄城が沼田城と呼ばれていた頃その沼には大きな亀が住んでおり、ときどき這い上がってきては、道行く人を捕らえて食っていたという。あるとき一人の僧が新庄にやってきて、沼のほとりに庵を作り、一心に祈ったところ、亀は全く現れなくなったという。

長泉寺

 空腹感があったので、そろそろ昼食をと思い、左手にあるラーメン店「一茶庵支店」を覗いてみると、客がいっぱいです。入店を断念。

 その先には中の川が流れていて、右手、橋の手前に蔵王権現堂があります。金沢通りはこの先で県道32号線と突つきます。旧街道はここを右折して県道32号線を北東方向に進みます。

 


8 大町・小田島町

 この先は大町です。「かわうそど狐とおり」という民話に準えた名前がついています。ここは新庄宿の中心部かと思いますが、街は新しくなり、往時の面影はありません。大町の入り口(かつての落合町)には、新庄城の南大門がありました。その先の南本町交差点で県道32号線は右折して行きますが、直進すると「鴨とり源五郎とおり」左折して行くと「こぶとり爺様とおり」です。

 

かわうそど狐どおり

 雨が本降りとなってきたので、リュックから傘を取り出しました。左折して行くと小田島町に入ります。「昭和食堂」で昭和風のラーメンを食べました。本当に昭和風、こちらは客が他にいません。

9 本町・横町

 旧街道は南本町交差点を直進して「「鴨とり源五郎とおり」を行きます。ここが南本町。新庄宿の中心地です。100mほど行くと右手に新庄信用金庫本店の建物があります。本陣・伊東家はこの辺りにあったのでしょうか。

 左手の森金物店の前には「芭蕉遺構風流亭跡」の石柱が立っています。芭蕉が新庄で宿泊した渋谷甚兵衛の住宅の跡です。渋谷甚兵衛は新庄の裕福な商人で、尾花沢で芭蕉の知見を得て、邸宅に招いたようです。芭蕉は甚兵衛宅で旧暦の6月1日と2日(新暦の7月17日、18日)の2晩宿泊します。その間、兄の渋谷盛信宅に招かれて歌仙を巻きます。

 

 

風流亭跡

 斜向かいの山形銀行新庄支店の駐車場の入口に「芭蕉遺構信盛亭跡」の石柱が立っています。アメリカのジャズ界、ビバップ草生期に、ミュージシャンたちがこぞってチャーリーパーカーとセッションをやりたがったように、和歌をやる人、だれしもが、芭蕉先生と歌仙を巻きたかったのでしょう。

信盛亭跡

 その先の交差点には「大手口」の標柱があります。この先は北本町に入り、通りは「笠地蔵とおり」に名を変えます。左手に市の施設などが入る「こらっせ新庄」の建物があります。本陣「中島家」はこのあたりにあったのでしょうか。イザベラバードは新庄で宿泊していますが、宿がどこだったかわかりません。

 

こらっせ新庄

 本日の街道の旅はここまでとします。途中、列車で移動したので、時間的余裕があります。この後は少し、市内を巡りたいと思います。

 

10 大手町・新庄城跡

 大手口に戻って新庄城跡方面に行ってみます。大手口を西に進むとすぐ市民プラザに突き当たります。ここは、かつての町奉行所、明治になってからの郡役所の跡です。正面に芭蕉の句碑があります。「風の香も 南に近し 最上川」盛信邸を訪れた時の挨拶の句です。

 左手を回り込むと駐車場の傍に巨大な「明治天皇行幸」があります。早くから新政府軍についた新庄の土地柄なのでしょう。

 

市民プラザ

明治天皇行幸

 先に進んだ丁字路の手前左手に「藩校明倫館跡」の標柱があります。丁字路を左折して行くと左手に市立図書館があります。この裏の庭園は、老舗の醤油屋の庭園だったところで、天然記念物の大きなカヤノキがあります。

私立図書館庭園

 図書館前を右折して進むと右手に新庄教会があります。その先の交差点の角に「大手広丁」の標柱があります。大手門から羽州街道に至る大通りがあったところです。交差点の右手には「新庄ふるさと歴史センター」があります。交差点を直進すると「大手門跡」とがあります。この先は車止めがあって、歩行者専用の舗道となっています。彫刻が飾られており、新庄城址のお堀端に繋がっています。

 

大手門跡

 堀端に出て少し左手に進むと土橋があり、「戸澤神社」の石柱が立っています。土橋を渡って本丸跡に入ると、正面は新庄藩主・戸澤氏を祀る戸澤神社です。

 戸沢氏は、出自については諸説ありますが、鎌倉時代初期には仙北郡に本拠を得て、以後、南部氏や小野寺氏、安東氏らと抗争を繰り広げながら豊臣政権期まで生き残り、徳川家臣の鳥居氏と縁を結びました。徳川幕府成立期には新庄に領地を得て、以後幕末まで新庄藩主を世襲しました。

 新庄城は、沼田城と呼ばれ、天正年間に日野氏によって築城されたといわれていますが、詳細はわかりません。最上氏が改易となり、戸沢氏がこの地に入部しますが、手狭な鮭延城から1625年にここに移ってきます。そして、城下町をつくり、現在より東方の山裾を通っていた羽州街道を引き寄せ、流通の拠点としました。

戸澤神社

新庄城址内の心字池

 戻って「新庄ふるさと歴史センター」に入館します。新庄まつりの展示がメインですが、他に類を見ないほどの大量の民具が展示されているのに驚きました。

  新庄城址周辺は、天気のせいか、静かでゆったりした空間になっていると感じました。

ふるさと歴史センター

歴史センターの展示物


11 新庄駅周辺

 東に向かい、羽州街道を横断して新庄駅方面に向かいます。駅前通りも本町の羽州街道と同じような感じで、特段の寂れ感もないのですが、賑わい感もありません。

 新庄駅は現代的で小ぢんまりとしています。1999(平成11)年に、山形新幹線の新庄までの延長に伴って改築されました。駅前の銀色のキノコ状のモニュメントが目立ちます。駅舎の左手は「ゆめりあ」という交流施設になっており、イベントスペース、物産館などがあります。 新庄駅奥羽本線陸羽東線陸羽西線の接続駅で、「鉄道の町・新庄」を象徴する「鉄道ギャラリー」が入っているのが目を引きます。

新庄駅

鉄道ギャラリー

 反対の東口に行ってみる。広々としたロータリーがあり、バス停に続く、長い木造りの屋根が印象的であす。駅前は広い公園となっていて、一層、開けた感じがあります。

 明日のために金山行きのバス停を確認して、駅の南にある本日の宿所である「ポストホテル」に向かいました。

 ホテルで休憩してから、夕食をとるため外出しました。ラーメンが名物らしく、ラーメン屋が多いです。駅近の「新旬屋本店」は有名店らしいです。(ラーメンについてはよく知りません。)醤油味でなかなか美味しいラーメンでした。

 

新庄駅夜景

 新庄市は、郊外でロードサイド店が熾烈な競争を繰り広げ、その割りを食って中心街は沈んでいるとか、人口減少と高齢化が甚だしく限界都市だとか、言われているようです。しかし私は、伝統的な要素と新しい要素をバランスよく取り入れた魅力的な街だと感じました。冬の気候はわかりませんが、結構住みやすい街なのではないでしょうか。ぜひ、中心街の魅力をアピールしてほしいと思います。