ごまめの旅日記

街道等の歩き旅を中心に旅の記録を紹介します。

羽州街道を歩く 番外編1 庄内町 酒田市

令和5年7月30日(日)  晴れ 雲多し 暑い

 羽州街道は、上山から山形・天童と続くのですが、8月の初めの山形・天童地域は「花笠祭り」の季節で、相当の混雑が予想されます。また、山形盆地は、夏は相当暑いと聞いています。そこで、山形を避け、庄内に行くことにしました。山形を語る上で庄内は欠かせません。また、庄内平野の米作りも、一度見てみたいと思っていたところです。

 初めは、最上川の川下りをして庄内に入ることを考えたのですが、船の時刻が、列車(現在は代行バスによる運行)の時刻と噛み合わずロスが大きいので諦めました。直接船の会社に確認したのですが、列車利用者のことは考えていないようです。

 そこで、余目で下車して自転車で最上川庄内平野を巡ることにし、それから酒田へ入ることにしました。

 

1 新潟駅から庄内へ

 北陸新幹線新潟駅に向かいます。北陸新幹線E7系車両は、なかなか快適です。シートピッチが広く、振動や騒音が少ない。線路もだいぶ改良されたのでしょう。

 新潟駅は(以前からそうだったかな?)新幹線ホームと在来線ホームが同じ高さで並行しています。現在は、新幹線11番線から羽越本線の特急「いなほ」が発着する5番線へ行くのは階段を使わず、対面乗り換えが可能となっています。しかし、私が利用した「とき307号」は14番到着なので、残念ながら対面乗り換えはできず、一度コンコースに降りてから羽越本線の5番ホームへ移動しました。

 5番線で待っていると「いなほ3号」が入線してきました。黄色の車体かと思っていましたが、白地に赤と青の線が入っている車体でした。しかし、車内は赤っぽいシート地の上に黄色の枕カバーをあしらって暖色系にまとめています。夕日をイメージしているとのことです。

特急いなほ

特急いなほの車内

 現在の「特急いなほ」は新潟駅から白新線羽越本線経由で酒田、または秋田まで、E653系電車を使用して運行されています。上越新幹線ができるまでは、上野〜秋田間を上越線信越線、白新線羽越本線を経由して運行していました。羽越本線が非電化だったころは、ディーゼル特急でした。

 JR線の新潟駅周辺は、系統がやや複雑です。新潟駅から新発田駅までは「白新線」。計画段階で新潟駅より越後線で1つ西に行った白山駅が起点だったため「白新線」と呼ばれています。(新新線だと語呂が悪いからかもしれません。)新発田駅から先が「羽越本線」です。これは、新津駅が起点となって秋田駅まで伸びています。しかし、現在の運行は、ほとんどの列車が酒田止まりです。

 「いなほ3号」は新潟駅を出るとすぐ、川幅の広い阿賀野川を渡ります。村上駅を過ぎるとデッドセクションがあり、直流から交流に切り替わります。鮭の遡上で有名な三面川(みおもてがわ)を越えると海が見えてきます。この先は「笹川流れ」と呼ばれる景勝地です。

あつみ温泉」駅を過ぎ、トンネルを抜けるといよいよ庄内平野です。庄内平野は、見渡す限り緑の平野が続いており、平野がほとんど田んぼで埋め尽くされているようにも見えます。

2 余目駅庄内町

 余目駅は、羽越本線陸羽西線が結節するターミナル駅で、鶴岡駅より列車本数が多くなります。駅を降りると、磐越西線が不通になっている関係で、JRバスが停まっています。

余目駅


 駅前にある「新産業創造館クラッセ」へ向かいます。蔵を模したモダンな建物で、土産物屋やレストランが入っています、本日はここで自転車を借ります。はじめに目指すのは、最上川を越えて、旧松山町のエリアです。

新産業創造館クラッセ

 庄内町は平成17年に余目町と立川町が合併してできた町です。「庄内」を名乗ることに鶴岡や酒田から反発の声もあるようです。要するに「庄内の中心は自分だ」ということなのでしょう。藩庁があった鶴岡は政治の中心、日本海側屈指の港をひかえた酒田は経済の中心といったところでしょうか。

 旧立川町の清川は芭蕉が下船した地として知られています。また、幕末に活躍した清河八郎の出身地でもあります。

 清河八郎は、1830(文政13)年に清川村庄内藩郷士・斎藤豪寿の子として生誕。江戸に出て剣術と学問を学び清河塾を開く。次第に尊王攘夷思想を深め、虎尾の会を結成して討幕運動に邁進するが、1863(文久3)年に江戸で幕府の刺客に討たれる。

 清河八郎は、幕末に活躍した山形県出身者の中では、最も知られた存在のようです。鶴岡出身の作家・藤沢周平氏(氏については後ほど述べます。)は、幕末に活躍した山形県出身者で清河八郎ほど知られていない人物に光を当てたいと考え、「雲奔る」という小説で、米沢の雲井龍雄を取り上げています。(のちに「回天の門」で清河八郎も取り上げています。)

 余目町は、最上川の水面より標高が高いため、ずっと原野でしたが、江戸時代に狩川城主により北楯大堰が開削され、新田開発が進んだとのことです。

 線路を渡って田んぼの中を行き、県道117号線に乗って最上川を目指します。道路と田んぼの間には柵が設置してあります。後でわかったのですが、冬の地吹雪を和らげて、道路を走る車の視界を確保するためのものです。

庄内町のレンタサイクルと道路脇の柵

田んぼが広がる庄内平野 うっすらと鳥海山

 最上川を渡る庄内橋は、歩道がないので、安全に渡れるか心配だったのですが、幸か不幸か、工事中で片側通行となっていたため、かえって安全に渡ることができました。最上川は、予想通りの大河で、滔々と流れていました。

庄内橋からの最上川 上流方面


3 旧松山町

 橋の先を右折して国道345号線に入り、すぐ左折して旧松山町の市街地に入ります。旧松山町は最上川河岸段丘に広がる町で、平成17年に酒田市と合併し、消滅しました。江戸時代には松山城が築かれ、庄内藩支藩である松山藩の藩庁でした。

 市街地の東の山辺松山城の跡があります。現在は1792(寛政4)年に再建された大手門が残るだけです。近くには松山文化伝承館松山城址館が設置されています。その奥にはかつて県立松山里仁館高校がありましたが、現在は生涯学習施設となっています。

松山城大手門

 さらに奥に行くと總光寺があります。總光寺には国指定の名勝庭園「蓬莱園」があります。また山門の前には天然記念物のきのこ杉の並木があります。

総光寺

きのこ松

 さらに登っていくと眺海の森という庄内平野を俯瞰できるビューポイントがあるのですが、そこまで登るパワーがありませんでした。残念。


4 余目駅周辺(庄内町

 来た道を戻ります。庄内平野の田んぼの北方にはうっすらと鳥海山が見えます。線路の下をくぐって、旧余目町市街地へと向かいます。

 まずは、庄内町役場へ。モダンな建物です。次に「ハナブサ醤油」の醸造所へ。1823(文政6)年創業の老舗です。そして清酒「やまと桜」を醸造する「合名会社佐藤佐治右衛門」。ここは1890(明治23)年創業、「柔らかな酒」を標榜しています。その近くに八幡神社があります。1814(文化11)年創建の余目郷の総鎮守です。

合名会社佐藤佐治右衛門

 次に、余目のもう一つの酒蔵「鯉川酒造」に行きます。ここは、地元産の米「亀の尾」を使った酒造りに取り組んでいるとのことです。それから「中央通り」というのを通って駅まで戻りました。余目町は、こじんまりとしたどこにでもあるような町でした。 

 自転車を返却して、クラッセでお土産を見て、予定より早めに駅へ行くと、15:45発の酒田行き代行バスが出ることがわかりました。バスもいいかなと思い、バスに乗って酒田駅へ向かいました。


5 酒田駅前地区

 バスは田んぼの中を進み、県道360号線を通って砂越駅へ。そこから国道47号線で酒田市街に入り、酒田駅に到着しました。

 酒田駅は黒っぽいモダンな駅舎です。令和3年の3月にリニューアルされました。写真を比べて見る限り、駅舎はそのままで、外壁を塗り直した感じです。駅前はまだ工事中です。

 酒田市は人口約9万5千人で、山形県では鶴岡に次いで第3位。重要港湾である酒田港は、北前船の寄港地で、江戸時代に河村瑞賢が西廻り航路を開拓してからはますます栄え、「西の堺、東の酒田」と並び称されるほどでありました。

酒田駅

 駅前交差点の南東側の地域は再開発事業により「光の湊」と呼ばれるようになりました。図書館や飲食店などが入る複合施設「ミライニ」に、8階建ての「月のホテル」がくっついています。それからバスターミナルと駐車場、10階建てのマンションの3つの施設の集合体です。この場所にはかつて「ジャスコ」の建物があったようです。とても現代的な施設群で、人が集まりそうです。

ミライニ

6 寺町〜中町

 駅前から西へ伸びる通りの南側は、寺町になっています。街の中心から見ると北縁に当たる地域です。通りを行くと1565(永禄8)年創建とされる八雲神社があります。

 さらに進むと左手に広大な敷地を持つ総合文化センターがあります。

 その向こう側の角を左折して南に向かうと寺町に入ります。もう一度左折して次を右折して進むと、左手の大きな本堂が見えてきます。浄福寺です。

 直進すると左手に大きな二体の獅子頭が展示されています。それぞれ「山王」と「日和」という名前がついています。1976(昭和51)年に酒田市街で大火があり、その復興のシンボルとして1979(昭和54)年に四体の大獅子が作られたそうです。これは、そのうちの二体です。その後、大獅子は子供の四体、赤ちゃんの八体が作られ、現在は合計十六体となっているとのことです。これらは5月の酒田まつりのときに集合するそうです。

獅子頭 山王と日和 後ろに清水屋百貨店

 獅子頭の後ろ側に黄色のアーケードを備えた商店街が続いています。中通り商店街です。ここは昭和の大火の後、復興事業として作られた商店街です。アーケードかと思った部分は、実はそうではなく、中通りに沿って作られた商店の1階部分が1.5m引っ込んでいて(セットバックというらしい)、その部分がアーケードのようになっているそうです。ここが、酒田市の中心であることは間違いなさそうです。

 ところが…、閉まっています。一斉にシャッターが閉まっています。中通りを東にずっと進んでみましたが、やはり閉まっています。今日は日曜日なので定休日なのでしょうか。しかし、不思議と寂れた感じがありません。

 ここも、客足が、三川町にあるイオンモールか、国道沿いの郊外店に奪われているのではないかと思います。その象徴は清水屋百貨店でしょう。大火からの復興のシンボルとして市民に親しまれた清水屋は、2021年7月に閉店。ビルはそのまま。跡地の利用計画は現時点でまだ、決まっていないようです。

 

中通り商店街

 

6 本町と酒田三十六人衆

 酒田の中心市街地は道路が碁盤の目のようになっています。中通りの2本南の通りが本町通りです。アーケードが終わったところから本町通りに出ると、本間家の旧本邸があります。すでに閉まっている時間なので、入館は明日にします。向かいには、本間家別館があります。ここは、実際に商売に使っていた商家です。現在は土産物屋になっています。

本間家旧本邸

本間家別館

 本町通りを西に行くと、右手に芭蕉が宿泊したという「近江屋」の跡があります。

本町通りと近江屋跡

 芭蕉は、奥の細道の旅で、鶴岡から赤川を船で下り、1689年6月13日(新暦の7月29日)に酒田湊に到着。医者である伊藤玄順宅を尋ねたのだが、不在だったために近江屋に1泊したとのことです。そして、翌朝、玄順に会い、その日は寺島彦助邸で歌会を行い、その夜は玄順宅に宿泊しました。玄順は俳号を「不玉」といい、本丸ビルの角を北へ行ったところに不玉亭跡の石碑が立っています。

不玉亭跡

 不玉亭で詠んだとされる歌が「暑き日を 海に入れたり 最上川」である。この日も、本日と同じように暑い日だったのでしょう。その後、芭蕉は6月15日(7月31日)に象潟に向かって旅立ち。6月18日(新暦の8月3日)に酒田に帰還。6月24日まで不玉亭に宿泊しています。今から334年前のこの時期に芭蕉もこの地に滞在していたとは、感慨深いものがあります。

 さらに西へ行くと井原西鶴の「日本永代蔵」にも登場する豪商「鎧屋(あぶみや)」跡がありますが、改修工事中でした。向かいは酒田市役所。ここにも二体の獅子頭「松」と「桜」が置かれています。また、酒田三十六人衆の説明板があります。

 酒田三十六人衆とは、酒田湊の開港と発展に力を尽くした者たちのことで、奥州藤原氏が滅亡したとき、立合沢に逃れてきた秀衡の妹とも皇室ともいわれる「徳尼公(とくにこう)」に従ってきた遺臣三十六騎が土着して酒田湊を開いたとされます。酒田湊は、堺と同様、町人による自治で運営された町で、政治の中心を担うのが三十六人衆でした。三十六人衆は、大方、ここ本町通りに商館を構えていたようです。浮き沈みの激しい商売の世界で、三十六人衆はたびたび入れ替わっていたとのことです。

市役所脇の酒田三十六人衆の説明板

 NHKのドラマ「おしん」では、主人公のおしんは酒田の米問屋「加賀屋」に奉公に出るという設定でした。本町は繁栄する酒田の中心地だったのです。

 今晩から2晩、市役所隣の若葉旅館に宿泊します。明日は自転車を借りて市内を巡る予定です。

お世話になった若葉旅館