ごまめの旅日記

街道等の歩き旅を中心に旅の記録を紹介します。

羽州街道を歩く 9 金山宿

令和5年11月13日(月)  小雨からみぞれ のち晴れ間

 3日目。最終日。街道をさらに北へ行って金山町まで足を伸ばすつもりですが、生憎の天気と時間と熊出没の関係で、バスで金山町まで行くことにしました。帰りは、逆向きになりますが、少し街道を歩けるかもしれません。

 雨は冬の季節風によるもので、気温が下がれば雪となるでしょう。冬が近づいています。新庄駅前から7:30発の金山行きバスに乗り、出発します。

 

1 十日町・泉田

 バスは羽州街道に沿って北上して行きます。指首野川を渡ると北町です。北町交差点を右折して陸羽西線を渡ると、この先は旧十日町村です。ずっとほぼ直線で起伏もない道で、両脇には民家が連なります。民家の背後は田んぼになっています。奥羽本線を渡り、太田地区、荒小屋地区を抜け、右折して国道13号線に合流し、泉田川を渡ります。

 橋を渡ると旧泉田村です。ここからも平ら、直線、両脇が民家、が続きます。

 やがて前方に丘陵地が見えてきます。上台(うわだい)の山地です。国道は左にカーブしながら山地を抜け、金山(かねやま)地区に入ります。旧羽州街道は、まっすぐ山地に入って上台峠を抜けていました。


2 上台・山崎

 峠を下りて、上台の集落に近づいたところに上台のバス停があります。バスを下りて集落に入ります。羽州街道を南に戻って上台峠の入り口まで行き、そこから歩き旅をスタートさせます。

 

上台バス停から上台峠方面を望む

上台峠の北側の入り口

上台の集落

 ちょうど雨が上がり、北方の不思議な三角形の山が見えるようになってきました。この山々は金山三峰と呼ばれ、西から薬師山(436.7m)、中ノ森(415m)、熊鷹森(390m)です。イザベラ・バードはこの3つのピラミッドを印象深く受け止めたようです。

金山三峰

 上台の集落を抜け、国道13号線と合流し、上台川を渡り、そのまま国道を北上します。「ニコット」というホームセンターの駐車場からも、金山三峰を望むことができます。その先右手には県立新庄南高校の金山校があります。

 

3 金山宿

 金山の市街地に入ると、旧街道は、金山町金山のY字路を右に入って町役場の方へ向かいます。役場の向かいには3棟の大きな白壁の和風住宅が並んでいます。あとで「マルコの蔵」で、話を聞いたのですが、「金山型住宅といって、町の景観と産業を守るために、町が補助金を出して建設を推進している住宅です。役場の建物も大きくはないですが、黄色の壁の和風で独特の趣があります。

 

役場の向かいの金山型住宅

 金山町は、人口5000人ほどの町で、北東にある神室連峰で秋田県と接しています。戦国時代に町割りが行われたとのことです。江戸期には宿場町として栄え、久保田藩領との間には、森合峠と主寝坂峠があるため、参勤交代のときは必ず金山宿に宿泊したとのことです。「金山型住宅」は、後に参議院議員となる岸宏一が金山町長だったとき提案したもので、地元の金山杉を使い地元業者により建設するなど、いくつかの条件が決められています。1982年には、我が国の地方公共団体としては初めて、情報公開条例を制定したり、1986年には街並み景観条例を作ったりするなど、先進性と独立性に富む町です。昭和の大合併でも平成の大合併でも独立を貫きました。近年は、子育て世代の支援にも手厚く取り組んでいるとのことです。

 役場の先の角には「街角交流施設マルコの蔵」がありますが、まだ開館前でした。右折すると「大堰公園」があります。1977(昭和52)年から1983(昭和58)年にかけて行われた農業用水である金山大堰の改修に合わせて作られた公園で、水路の底と側面はコンクリートでなく割石が使われています。大堰の起源は不明ですが、戦国期に開削が始まったと考えられています。

 その畔には古民家風の休屋が作られ、周囲には古民家風の住宅が並んでいます。漆喰の土塀の屋根瓦の上には苔が生えています。非常に景観豊かです。

 公園内には岸宏一の胸像とイザベラ・バードの記念碑が建っています。バードの記した「奥地紀行」によると、バードは金山の一風変わった景観を気に入り、「星川屋」に宿をとり、しばらく休養して虫に刺されて炎症を起こした手の治療を行なったとあります。そして、町の人々と交流し、楽しいひとときを過ごしたとのことです。

街角交流施設マルコの蔵

大堰公園内の金山大堰

板塀

大堰公園内の岸宏一像とイザベラ・バードの記念碑

 東側には金山小学校があり、校庭の隅に「歴史の門」という名で、金山城の裏門が移築されています。金山城は、金山小学校の裏山にあった戦国期の城郭で、最上氏が横手の小野寺氏と対峙するために丹与惣左衛門に造らせたものです。門の東にある宝円寺は、丹与氏の菩提寺です。

歴史の門
 街道はマルコの蔵の交差点を左折して進みます。マルコの蔵の隣は擬似洋館で「交流サロンぽすと」となっています。この辺りは十日町です。その先左手には蔵造りの商工会事務所があり、裏手には蔵造りの「歴史館」という名のイベントスペースがあります。十日町の街並みも素敵です。
 

交流サロンぽすと

商工会事務所と歴史館


4 羽場(はば)

 県道を横断して先に進むと金山川に差し掛かかります。往時は金山大橋がかけられていましたが、現在は橋の下流側に屋根付きの歩道橋「きごころ橋」が造られています。この先は羽場の集落となります。右手に円称寺があります。もともと谷口銀山にあった1637年開山の寺院で、後に現地に移されたそうです。その先の右手には、戊辰戦争の時の仙台藩士の霊を祀った「仙台藩士殉難碑」があります。戊辰戦争「金山の戦い」では、仙台藩兵が金山に本営をおいていましたが、新庄藩の寝返りにあい、敗走しました。

きごころ橋

仙台藩士殉難碑

 その先ずっと進むと左手に「金山型住宅」の公営住宅があります。直進すると山林に入りますが、森合峠の入り口と思われます。右手に西田羽長坊の句碑があります。西田羽長坊(うちょうぼう)は江戸時代の芭蕉派の俳人で、金山の豊商・西田家の出身です。

主寝坂峠方面

西田羽長坊句碑

 今回の街道の旅はここまでとします。秋田県へ抜ける峠の攻略は、今後の課題とします。

 

5 再び十日町

 十日町に戻って、「交流サロン」に入館します。二階は図書館になっていますが、本日は閉館。一階の休憩スペースに町の広報資料があって、金山型住宅のことや体験型リゾート施設「シューネスハイム金山」について知ることができました。長期滞在して楽しみたい町ですが、ちょっと遠いのが残念。

 隣の「マルコの蔵」に入館し、軽食を注文しました。館内の女性から「金山型住宅」についての情報を聞くことができました。

 12時のバスの時間が近づいたので役場前のバス停でバスが来るのを待ちました。雨はみぞれに変わり、やや強くなってきました。いよいよ冬の到来です。寒さに震えていると、定刻より少し遅れてバスがやってきました。金山町を後にして、新庄へ戻ります。

 

6 太田地区

 新幹線の出発時刻には、まだ余裕があるため、少しでも街道を歩こうと思い、太田北バス停で下車しました。ここから街道を反対に歩いて新庄駅に向かいます。雨が上がって晴れ間が見えてきました。今回はずっと曇り空で、旅の最後になって、やっと青空を見ることができました。

 すぐ右手(街道順方向では左手)に太田八幡神社があります。前回にも記載した鳥越八幡神社の元宮です。

太田八幡神社

 南に下ると左手に大きな寺院が見えます。会林寺(えりんじ)です。

 その先を左折して戸澤家墓所に向かいます。左手には、整地途中という感じの英照院があります。そして指首野川を渡ると左手に戸澤家の墓所である瑞雲院があります。初めは、城下町北の入ロの要として、羽州街道西側に建立されましたが、元禄14年(1701年)全焼し、寺地を宝永3年(1706年)に現在地に移しました。その際に、墓石のみであったものを、現在の廟建築の形式に変えたものと思われます。ここには6棟の廟があり、2代正誠を除く10人の藩主が葬られています。

 

瑞雲院


7 茶屋町万場町

 街道に戻り南下すると太田踏切で奥羽本線を渡ります。この辺り茶屋町です。少し行くと茶屋町出世稲荷があり、その前には一里塚跡の表示があります。

 さらに南下すると陸羽西線の踏切を渡り、その先の北町交差点を右折して指首野川を渡り、右カーブ次に左カーブして次の交差点を右折すると、万場町です。この先はすでに紹介した通りです。


8 新庄駅 そして帰路に着く

 ポストホテルで荷物を受け取り、新庄駅に向かいます。まだ、少し時間があるので、「ゆめりあ」の物産店でお土産と車内で飲食するものを購入しました。その後15:17発のつばさ150号で帰路に着きました。

 天気には恵まれず、熊に注意するために、歩けない区間ができてしまった旅でしたが、冬到来前の時雨の季節を体験できたのは良かったと思います。

 山形県は、個性的な都市が多く、それぞれに魅力がありました。さくらんぼと銀山温泉だけではありません。歩いてじっくり回るとその魅力が理解できると思います。

 今回も思い出深い旅となりました。ゆったりした山形新幹線も福島からは超特急。あっという間に現実に引き戻されました。

 

旅の記録

スタート 金山町上台 8:10

ゴール  金山町金山 10:10

歩いた道のり約7.5km(大堰公園散策を含む)

時間2時間(大堰公園散策を含む)