ごまめの旅日記

街道等の歩き旅を中心に旅の記録を紹介します。

羽州街道を歩く 10 院内宿〜湯沢宿 その1 (旧雄勝町)

令和6年1月4日(木)  晴れ時々曇り

 今回の旅行は、秋田県に入って院内宿から大曲宿まで行きます。前回は山形県の金山宿までだったので、本来なら、森合峠、主寝坂峠など県境の峠を越えて秋田入りすべきですが、冬季の峠越えは不安要素が多いので、無理をせずに、この区間は将来にとっておいて、院内宿をスタートとします。

 また、年も取ってきたので、歩いての全線踏破にはこだわらず、交通をうまく使って、各都市の現状を見て回ることに時間を割きたいと思います。

 さらに、1日分が長くて、わかりにくいと思うので、今回から、1日分を2回に分けて記すことにします。

 山形新幹線つばさ号で終点の新庄へ向かいます。

 

1 県境を越える

 天候に恵まれ、晴れ間はあるし、雪が積もっていません。新庄駅奥羽本線秋田行きに乗り継いで、北へ向かいます。ここからは軌間狭軌となり、ピンクのラインの701系が走ります。沿線は険しい峡谷を想像していましたが、意外に平野も多く、及位(のぞき)院内間のトンネル部分を除けば、山奥に入るという感じではありません。これなら新幹線を通すのも、それほど苦労がないのではないか、と思います。新幹線を秋田へ伸ばすのに、新庄から伸ばす手もあったと思います。当然、湯沢市横手市はそれを望んだでしょう。

院内駅停車中の奥羽本線普通列車 701系

2 院内宿

 院内駅に到着しました。駅舎は、煉瓦造りで、院内銀山異人館が併設されています。異人館には、院内銀山の歴史を伝える資料等が展示されています。建物は意外と新しく、1989(平成元)年にドイツ人技師の住居を模して建てられたとのことです。実際のドイツ人技師の住居は、もう少し西の銀山入口にあったようです。

 

院内銀山異人館

 院内銀山は1606(慶長11)年に村山宗兵衛らにより発見され開山された、金と銀を産出する鉱山で、江戸時代を通して、日本最大の銀山でした。江戸期は、久保田藩が管理し、藩の財政の重要な柱の1つでした。

 江戸中期に衰退しますが、新たな鉱脈が発見されて盛り返し、銀山町は最盛期には人口1万5千人と久保田城下を凌駕するほどの街となりました。

 明治期に入り、古河市兵衛が経営にあたりますが、明治末期に銀の暴落で経営が行き詰まり、規模を縮小し、1554(昭和29)年に閉山となりました。

 駅を出て、街道を戻り、上院内へ向かいます。町外れの踏切の手前に院内番所があります。江戸初期に秋田に入部した佐竹氏によって造られた藩境の番所です。

 

院内番所

 ここを今回の街道旅のスタート地点とし、駅方向へ戻ります(街道としては順方向)。

 街道沿いは、上院内宿の集落で、明治期は旅館が並んでいたらしいです。イザベラ・バードは、このあたりに宿泊したようです。

上院内の集落 イザベラ・バードはこの辺りに宿泊

 一度、雄物川を渡って集落の中を進むと正面に愛宕神社の表示が見えます。左手にコロリ地蔵尊があります。

 

愛宕神社

 

コロリ地蔵尊

 コロリ地蔵尊は、愛宕神社別当で即身成仏された阿闍梨渕青(あじゃりえんせい)を偲んで建立されたとのことです。

 愛宕神社は801(延暦20)年に坂上田村麻呂が、戦勝に感謝するために愛宕山に祠を建てたのが始まりとされています。立派な本殿を持つ神社です。

 

 街道は、神社の手前で雄物川を渡り、対岸を進みます。

 駅前から先は下院内宿となります。駅前を過ぎると右手に旧院内尋常高等小学校があります。左右対称のロマネスク様式の擬似洋館で、1904(明治37)年に火災で焼失し、1906(明治39)年(1906)に再建したものです。1979(昭和54年)まで院内小学校として使用されていましたが、廃校となり、現在は地区センターとなっています。

旧院内尋常高等小学校

 その手前には、1923(大正12)年に建てられた旧院内町役場の倉庫が残っています。一見、大谷石に似ていますが、院内石で造られているとのことです。

 

旧院内町役場倉庫

 街道はその先で左折し、雄物川を渡ります。その先100mほどで突き当たりとなり、右へ直角に曲がります。突き当たりは、本陣を務めていた旧斎藤善兵衛宅です。門の中に明治天皇行在所の石碑が見えます。

 

院内本陣跡 旧斎藤善兵衛宅

 右折して300mほど行き、いぶりがっこの店「きむらや」のところで左折します。雄物川沿いに進むと左手に「菅江真澄の道」と書かれた白い標柱があります。菅江真澄がこの辺りで歌を詠んだようです。菅江については後述します。

 その先、桂川橋で雄物川を渡り、踏切を渡って、国道13号線に合流します。進行方向に形の整った三角形の山が見えますが、鳥海山のようです。

 

奥羽本線の線路と東鳥海山


 直線の国道を少し行くと右手に誓願寺があります。ここは、大坂冬の陣で闘死した久保田藩の家老で院内銀山奉行の渋江内膳政光を弔うために院内銀山地内に建立された寺院です。門の形がユニークです。

 

誓願寺


3 横堀宿  〜小野小町伝説〜

 その先で、役内川を万石橋で渡ると横堀地区に入ります。左手のモダンな建物は「雄勝文化会館オービオン」。院内町、横堀町、小野町、秋の宮村は1955(昭和30)年に合併して雄勝(おがち)町となっていましたが、2005(平成17)年に湯沢市と合併して消滅しています。旧秋の宮村は第99代内閣総理大臣菅義偉の出身地です。また、旧小野町は、小野小町の出身地とされています。

 そして旧街道は横堀宿に入っていきます。その先の二股は左が街道のようです。横堀駅入口を過ぎて800mほど行くと右手に小野堂があります。この右手奥の桐木田が、小野小町の出身地とされています。

 

横堀宿

 

小野堂

 小野小町の出自については諸説あり、学術的には決着がついていません。しかし、秋田は、「あきたこまち」や、新幹線の「こまち号」などと「こまち」の名を使い、旧小野町が小野小町の出身地と断定しているようです。

 小野小町

「花の色は 移りにけりな いたずらに 我が身世にふる ながめせし間に」(古今集

の歌で知られる平安時代歌人。また、絶世の美人としても知られています。小町は、歌人小野篁(おののたかむら)の子の出羽郡司・小野美実(おののよしざね)の子と記録されていますが、生没年からして、これは疑問視されています。美実が郡司というのもおかしい。郡司は通常、地元の有力者が任命されるからです。

 この地に伝わる小野小町伝説は以下のようなものです。

「美実が郡司としてこの地に赴いて有力者の娘を娶り、その娘との間に生まれたのが小町である。13歳で京にのぼり、女官として頭角をあらわし、帝の寵愛を受ける。36歳で故郷の桐木田に里帰りしたが、小町を慕って深草少将が下向してくる。小町は少将に、百本の芍薬(しゃくやく)を植えたら求めに応じると約束するが、少将は、百本目を植えに行ったときに洪水に流され亡き者となる。小町はそれを悔やみ、以後、岩屋堂に籠って生涯を終える。少将の遺体は二ツ森に葬られたとされ、芍薬を植えていた塚の後に小野堂が建てられたとされている。」

 公平に考えて、小野小町の出身地は、京都市内か山科あたりが妥当かと思われます。ただし小野篁が幼少期に陸奥国のどこかにいたのは真実らしいです。

 小野堂まで行ってみたのですが、急にお腹の具合が悪くなって、急いで横堀駅に引き返してしまいました。小野堂や雲の神社、二ツ森等をじっくり見る予定だったのですが残念でした。

 


 もう一人、旧雄勝町の出身者を挙げます。第九十九代内閣総理大臣菅義偉(すがよしひで)です。菅は旧秋ノ宮村のイチゴ農家の長男として出まれました。父親は、満州から引き上げてきて、秋ノ宮でイチゴの生産に取り組み、「秋ノ宮いちご」のブランド化に成功し、雄勝町会議員や出荷組合長を歴任しています。母親は高校教師でした。菅は、一旦段ボール生産の会社に就職しますが、その後法政大学に進学。政治家を志し、政治家の秘書を経て、政治家となりました。エリートではなく、親の七光でもない、志高くして政治家になった人物です。首相よりも安倍政権で長く官房長官を務めたことが印象に残っています。実直な実務型の人物だと感じています。
 なお、菅氏の銅像は、旧雄勝町地区ではなく、湯沢駅前にあります。湯沢市出身ということなのでしょう。

第九十九代内閣総理大臣 菅義偉

 

 この後、湯沢市内をじっくり見るために、横堀駅で14:27発の列車を待ち、上湯沢駅に向かいます。

 その2(湯沢宿)に続きます。