一般的に歴史は、勝者の視点で書かれます。
街道を歩いていると、敗者として歴史の表舞台から消えてしまったり、否定的な評価をされていたりする人と出会うことがあります。
たとえそのような人物でも、その出身地やゆかりのある地では、その人物を英雄として、後世に残そうとしています。
旧街道歩きで出会った、そのような人物の何人かを紹介したいと思います。
1 木曾義仲 〜自らの意思で歴史を動かした稀有な日本人〜
一人目は、中山道、宮ノ越宿で出会った木曽の英雄木曾義仲です。
義仲の略歴を記すと
1154年、現在の埼玉県比企郡嵐山町の大蔵館で源義賢の次男として出生。(諸説あります。)
1155年の大蔵合戦で父、義賢が討たれたが、畠山重能らのはからいで、木曽谷の中原兼遠に預けられる。
しかし、時の権力者、後白河法皇と不仲になり、源義経らに追われる身となる。
1184年 現在の大津市の粟津で討死。
現在、大津市の中山道のほど近くに義仲を弔う義仲寺があります。
義仲は、黙っていれば歴史の舞台に登場することはなかったはずです。しかし、自らの意思で歴史を動かそうと兵を挙げます。残念ながら京都で支持が得られず、源頼朝らに飲み込まれてしまいます。頼朝の政敵なので、当然、汚名がきせられています。
義仲の木曽での根拠地である中山道の宮ノ越宿には、義仲を顕彰する旧跡が多数あります。義仲が元服をし、また、平家討伐の旗挙げをしたという八幡宮、義仲の菩提寺の徳音寺、義仲に関する資料を収めた義仲館(この正面には義仲と巴御前の像があります。)巴御前が龍の化身となった巴が淵などです。
芥川は中学生の時に「木曾義仲論」を書き、「彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也。」と評します。私は、彼の人生は「薄幸」だったとは思いません。自らの意思で、意味のある人生を切り開いた幸福な人物だったと思います。
芭蕉にいたっては、「義仲の傍らに眠りたい」と遺言し、義仲寺に、義仲と並んで眠っています。
2013年に、埼玉県、長野県、石川県の知事が相談して「木曾義仲を大河ドラマに」する運動が展開されました。また、2022年の「鎌倉殿の13人」の時にも同様の運動が展開されました。義仲の人生は波瀾万丈で、また、巴御前とのラブロマンス(他にも数人の女性の影あり)もあり、ドラマ向きだと思います。なぜ、大河ドラマで取り上げられないのでしょうか。
2 石田三成 〜愚直に忠義を貫いた類稀な能吏〜
2人目は、近江が産んだ智将 石田三成です。
石田三成の略歴を記します。
その後、秀吉家臣内で頭角を表し、秀吉が政権を握ってからは刀狩り、太閤検地といった秀吉が進めた政策の実行、諸大名との外交など側近として力を振るった。また、軍事面では兵站の取り仕切りなどで辣腕を発揮した。「私情」(政権内部の人たちの権益)を否定し、愚直に「正義」の実現を目指した。(しかし、これが、器が小さいと受け取られ、秀吉臣下の所謂「武闘派」と呼ばれる武将たちから嫌われたようです。)
秀吉死後、豊臣家への忠義を貫こうとするが、徳川家康や武闘派との対立を深める
1600年 関ヶ原の戦いでは西軍の将として戦いに臨んだが、敗北。その後捕らえられ、京都の六条河原で斬首される。根拠地としていた佐和山城や出身地石田郷は、家康の命で、徹底的に破却される。
江戸時代には、家康に刃向かった極悪人として、功績は抹殺され、器の小さい野心家としての逸話が捏造される。
徳川幕府の諸政策は、秀吉政権下での政策を受け継いだものが少なくないです。特に重要なものは「惣無事令」(…「刀狩」「検地」により兵農分離、村から武力を一掃した)だと思います。これこそ、近代化の源といえましょう。
秀吉政権下の多くの政策を立案し運用した三成の功績は、我が国の近代化を推し進める源となったと言えましょう。しかし、家康に刃向かったために、歴史から抹殺されてしまいます。
出身地である石田郷では、供養塔や顕彰碑などを設けて三成を顕彰しています。また、三成の知行地があった長浜市、彦根市周辺でも顕彰が進んでいます。
このような認識が持てたのも、街道歩きの成果だと思っています。
3 「破れざる者」円谷幸吉
「破れざる者たち」の言葉は、沢木耕太郎氏の著書から(勝手に)いただきました。
1964年の東京オリンピック男子(当時は男子しかなかった)マラソンで銅メダルを獲得し、次のメキシコ大会でも、メダル獲得が期待されていました。しかし、1968年1月に「幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。」と綴った遺書を残して自殺しました。
当時、まだ、小学生だった私も、このニュースにショックを受けたことを覚えています。
円谷幸吉(一般的に「つぶらや」と言われていますが本当は「つむらや」と読むのだそうです。)は奥州街道の主要な宿があった福島県須賀川市に生まれました。
松尾芭蕉は「奥の細道」の旅で、この地に8日間滞在し、弟子たちと歌仙を巻きました。戊辰戦争の激戦地でもあります。同じ「円谷」である「ウルトラマン」を作り出した円谷英二もここの出身です。
円谷幸吉は、当時「金メダル養成所」と言われた「自衛隊体育学校」に所属。メキシコオリンピックを前に怪我に悩まされ、思うように結果が残せず苦しんでいました。自らの目標が思うように達成できず、周囲の期待に応えることができない苦痛に耐えかねて、衝動的に自殺を図ったと考えられます。もともと「自らの楽しみ」で走り始めたのですが、次第に、人のために走るようになり「走る」ことが「自らの楽しみ」で無くなってしまっていました。
また、遺書は、前記の「走れません。」の言葉とともに、父母兄弟親族への感謝の言葉で埋め尽くされています。
沢木氏は円谷を「規炬(きく)の人」と評します。かっちりと固められた枠の中で生きることに徹した人です。この人格は、円谷の家庭の状況、おいたち、父親からの教育などにより育まれたものですが、私は、何より、東北の風土の影響を感じます。それは(後ほど取り上げますが)泥臭く、幕府への忠義や家の伝統を守ろうとした奥州列藩同盟の諸藩の思想に通じるものを感じるからです。
もし、彼が、自分の枠を取り払って、「勝てなくてもいいんだ」「自分が楽しむことこそが大切だ」と思えたら、自殺しなかったでしょう。しかし、周囲がそれを許さなかった。そんな時代でした。
須賀川市には、生家があった大町の奥州街道沿いに「円谷幸吉メモリアルパーク」があります。また円谷幸吉メモリアルホール、同アリーナを建設するとともに、毎年、円谷幸吉メモリアルマラソンを実施して、幸吉の偉業を後世に伝えています。
ところで、現在、パリオリンピックが終わり、パラリンピックが開催されています。その中で軍事侵攻を続けるロシアとその同盟国ベラルーシの選手の出場は許されず、個人での参加は許されています。
(しかし、イスラエルの選手団は参加を認められています。これって政治の介入そのものでしょう。)
選手は、もともとそのスポーツが楽しくて競技をしていたのでしょう。そして、レベルアップして国際大会にまで出られることを喜びとして努力してきたのだと思います。それが、いつの間に「国の威信」を背負わされるようになり、純粋に自分のためのものでなくなっています。
パラリンピックの選手が総じて明るいのは、国のために競技しているのではなく、自分の楽しみのためにやっているからだと確信しています。(中国の選手は???)
奥羽越列藩同盟は、戊辰戦争の際、会津藩、庄内藩が一方的に「朝敵」とされ、新政府軍に攻撃されそうになったために奥州、羽州、越後の諸藩が連名で赦免嘆願を出したにも関わらず拒絶された時に結んだ軍事同盟です。新政府軍は越後と東北に攻め上がり、列藩同盟軍と戦闘になりますが、列藩同盟は最終的に降伏します。
非常に重いテーマなのですが、奥州を旅しようと思えば避けることができないと思いますので、僭越ながら私見を述べます。
明治維新への問いかけ
明治維新については、「先見の明があった長州や薩摩の下級武士を中心に倒幕が企てられ、封建制度が解体されたために、日本は周辺の東アジアの国々に先立って近代化を成し遂げた。そのため、日本は植民地化を免れるとともに、欧米と肩を並べる近代国家となることができた。」というような認識が一般的でしょう。私も明治維新は日本人が成し遂げた素晴らしい歴史的成果だと信じてきました。
しかし、江戸時代=古い体制=悪 明治=新しい体制=善 と単純に捉えることができるのでしょうか。江戸時代は悪い時代だったのでしょうか。
旧奥州街道の旅を始めるときに、基本的なテーマの1つとして掲げたのが、明治維新への問いかけでした。
旧街道を歩いてみると、江戸時代の経済や文化に触れる機会が多いものです。それらをみると、たとえば新田の開発、農業技術の進歩、治水、商業や物流の発展、食、娯楽、学問の発展などで、大きな発展をとげ、近代日本の基礎が作られたことがわかります。けして、庶民が武士に支配されていた暗い時代というわけではなかったと感じます。近年、江戸時代の見直しが進んでいます。(例えばテレビでお馴染みの大石学氏の著書)
また、日本は、壊滅的な犠牲をはらった上で、1945年、太平洋戦争(が一般的か、「大東亜戦争」「十五年戦争」と呼び方に議論がある。)に敗戦します。国民的な作家である司馬遼太郎氏は、「明治維新は成功だったが、日露戦争が終わってから日本はおかしくなって敗戦を迎える」と考えます。(例を挙げると「この国のかたち」 6 機密の中の“国家”)これが現代の日本人の一般的な認識でしょう。しかし、本当にそうでしょうか。
一方で、この敗戦の要因は、すでに明治維新に組み込まれていたのではないかという問いかけが行われています。(例を挙げると、鈴木荘一「明治維新の正体」 原田伊織「明治維新という過ち」その他 星亮一氏の著書等)
「戊辰戦争」においても、新政府軍=正義 とみるのは「勝者の書いた歴史」そのものです。(「勝てば官軍」という言い方があります。)
私は東北に旅し、できるだけ東北の視点で戊辰戦争を見直す努力をしてきました。その結果、新政府軍=正義 とは言えないという思いを強くしました。(一例を挙げると、会津藩、庄内藩に対する「復讐」的要素、福島市で暗殺された世良修蔵の言動)
戊辰戦争は、新秩序 対 旧勢力の戦いではなく、天皇を頂点とする国家体制の中の権力闘争だと考えます。西郷隆盛、高杉晋作ら薩長勢力は、政権を奪取するために、自分達に対抗する勢力の中心的存在としてまず、徳川慶喜を恐れ、これを謹慎に追いやり、そして会津藩を恐れ、また、京都でのクーデターを邪魔されたといいう怨念を持って、会津を叩きに行ったのだと思います。そこには、古くからの東北=夷狄という意識もあったのかもしれません。
そして、会津藩は、新政府軍に壊滅させられます。それだけではありません。戦争で生き残った会津藩の人々は、青森県の下北半島や五戸を中心とした地域に斗南藩として改易され、気候が厳しく作物も育ちにくい土地での自活を強要されます。会津藩は、薩摩、長州など、江戸時代に抑圧されていた地域や人々の鬱積した怨念を一身にぶつけられてしまったのです。
しかし、人々は、この地で粘り強く生き、教育にも力を入れ、傑出した人物を輩出していきます。著名な人物としては、陸軍大将となった柴五郎、陸軍中将から男爵となった山川浩、その弟で物理学者、東京帝国大学総長となった山川健次郎らがいます。(健次郎は、会津での戊辰戦争史のバイブルとされる「会津戊辰戦史」の編纂の責任者となっています。)
会津藩こそ、真に「破れざる者」だと思います。
列藩同盟は、内部分裂をしてしまい、残念ながら、会津藩を守ることができませんでした。しかし、奥羽越いずれの藩においても、幕府に対する忠義、伝統的な枠組みを大切にする心情、「腹芸」を好まない真面目さを感じ取ることができます。