目次
1 北越谷
北越谷駅を9:00にスタート。今日もよい天気です。はじめに駅近くの香取神社を参拝します。
香取神社は、千葉県香取市の香取神社を総本社とする経津主神(ふつぬしのかみ)を祀る神社で利根川、江戸川沿いに分布しています。旧葛飾郡の地域です。
埼玉県は、神社の分布が、比較的はっきり分かれており、前回紹介した久伊豆神社は、旧埼玉郡域に多く、旧足立郡は、氷川神社が多くなっています。
ここの香取神社は「大沢香取神社」と呼ばれ、安産子育て、家内安全の御利益があると言われています。ちょうど七五三の祈願が行われていました。社殿に施された彫刻が見事です。
北越谷駅入口には「深野脇本陣」があったということですが、場所は特定できませんでした。
街道を北進すと、東武線のガードの脇の道となります。2つ目の信号でガードをくぐり反対側に出ると、その先は元荒川の桜堤となっています。街道は右折方向です。左手の北越谷第5公園は、かつては元荒川の入江となっており、船着き場があったとのことです。
その北側は、「宮内庁埼玉鴨場」です。
ここでは伝統的な鴨を傷つけない鴨猟が引き継がれています。もともと幕府の鷹場であったものを明治41年に宮内庁が引き継ぎました。毎年、鴨の狩猟期間(11月中旬から2月中旬)に、天皇による賓客の接待が行われています。
詳しくは以下のリンクを参照してください。
鴨場の北側に梅林公園があり、そこから元荒川に沿って鴨場の西側を見に行きましたが、藪が周囲を取り囲み、中の様子は分かりません。
鴨場の北側には、越谷梅林公園があります。
街道の旅を続けます。その先は大林という地区で、新しい住宅も建っていますが、農村地帯という印象が濃い地域です。
この辺りでは「越谷だるま」をつくる農家が散見されます。
「越谷だるま」は享保年間(1716〜1736年)に間久里の「だる吉」という人形職人が、起き上がり小法師に座禅を組む達磨大師を描いたのが始まりとされています。
その先、踏切で東武線を渡り、農村域に新しい住宅が混じる地域を進みます。国道4号線バイパスのガードをくぐると大袋地区です。かつては、元荒川が大きく蛇行し、袋状になっていたと思われる地名です。
やがてお寺のような大きな家が見えてきます。その辺りに下間久里の一里塚があったようですが、どこだかわかりません。
しばらく進むと、道は右にカーブして国道4号線と合流します。その手前辺りにかつて「間久里の立場」があったとされています。その中に「秋田屋」という茶屋があり、秋田の殿様は必ず立ち寄ったと言われています。
国道4号線と合流し、歩道を行き、せんげん台駅入口を過ぎます。この辺りは、かつては一面の田圃だったのでしょうが、今は国道沿いに郊外型店舗が多数進出しています。
戸井橋で新方川(にいがたがわ)を渡ると春日部市です。
新方川はかつて千間堀(せんげんぼり)と呼ばれていました。
国道脇を行くと、大枝という地区を過ぎて武里駅入口に至ります。その先は備後という地名です。埼玉なのに「備後」とは、不思議です。
弘法大師が備後国から移そうとして行方不明になっていた観音像がこの辺りで見つかったとのことです。
備後には立場がありました。また、立場跡の先には備後の一里塚跡があります。
その先、春日部中央総合病院の手前、藤塚橋交差点を右折すると大落古利根川に架かる藤塚橋があります。昭和の初期までこの上流と下流に渡し場があったらしいです。
大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)は久喜市と杉戸町の境、葛西用水と青毛堀川との合流点付近を起点とし、越谷市と吉川町の境で中川に合流する川で、かつての利根川本流です。大落とは水田の幹線排水路を意味しています。また、おおよそ、埼玉郡と葛飾郡の境となっています。
春日部中央総合病院を過ぎると郊外型の店舗が増え始めます。しばらく行くと東武スカイツリーラインのガードをくぐり、春日部の市街地へと入って行きます。
2 粕壁宿
春日部市は、人口23万。県下第7位の人口を持つ東部の中核都市です。地勢的には、低地と台地の境に位置し、市の東部は下総台地、西部は大宮台地に属する台地があります。そして、中央部は中川低地に属します。そのため、縄文、弥生時代の遺跡が多数あります。
「春日部」の地名は鎌倉時代から文書に登場します。ある時期から「粕壁」という字を使い、昭和に入り「春日部」に戻ったとのことです。
現在の春日部市は「クレヨンしんちゃん」を抜きには語れないでしょう。
「クレヨンしんちゃん」は、1990年に登場したギャグ漫画で、コミックスと国内外の関連書籍を合わせると、2015年の時点で1億4800万部に達するという、世界的な大ヒット作品です。作者の臼井儀人(うすいよしと)氏が育った春日部市を舞台としています。
しんちゃんは春日部市のイメージキャラクターとなっているほか、東武鉄道や作品の中では「サトーココノカドー」として登場する「イトーヨーカ堂」などの企業とのコラボレーションも行われています。
少し行って、一宮という交差点で街道は左に折れます。ここからが粕壁宿です。手前から新々田、三枚橋、新町、仲町、上町と続きます。
粕壁宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠45、家数773、宿内人口3701人となっており、比較的大きな宿です。江戸を発って最初の宿泊地にする人が多かったようです。
芭蕉一行もここを一泊目としています。芭蕉が泊まったのは、一宮交差点近くの東陽寺とされ、記念碑が建っています。
また、春日部は、俳人の加藤楸邨が俳句と出会った地なのだそうです。
ちなみに一宮は交差点北方の東八幡神社を指します。交差点から長い参道が続いています。
交差点を左折して少し行くと左手の金子歯科の前に脇本陣跡の標識があります。ここは幕末には本陣も務めていました。
本陣は、関根家(仲町郵便局辺り)→関根家(インドレストランが入っている建物辺り)→見川家(埼玉りそな銀行向かい)→小沢家(群馬銀行隣)→竹内家(ここ)と変遷しています。
少し行くと右手にロビンソン百貨店だった建物があります。一時期は西武デパートでしたが、今は、「匠大塚」という家具店になっています。
その先の角の信号の処が小沢本陣跡です。
その先、右手には関根家の古い建物があり、その隣の薬局とインド料理店が入る建物が関根本陣跡です。ここには「本陣跡」の標識があります。
少し先右手に、蔵を伴った白塗りの商家があります。ここが問屋場だった田村本家です。
その先の交差点の角に田村荒物店があります。ここは、街道に面して店があり、その裏は大落古利根川の畔までずっと蔵が続いています。この辺りの(仲町)の商家は、通りから大落古利根川まで、細長く土地を所有しており、川にはその家の船着き場があって、そこから直接物資を運び入れられるようになっていたようです。
右折すると大落古利根川に架かる公園橋があります。街の中心らしくモニュメントがあります。
仲町の辺りは春日部の中心地ですが、その割にはひっそりしています。商店がないわけではないですが、賑わいがなく、車通りも少ないように思います。昼時なので、どこかで昼食をと思ったのですが、食べるところがありません。
(2024年12月の追記: ロビンソン百貨店だけでなく、前述の「サトーココノカドー」のモデル「イトーヨーカ堂春日部店」も残念ながら2024年11月に閉店。市街地空洞化の波は、埼玉にも及んでいるようです。)
駅前通りの裏手にひっそりと山中観音堂跡があります。これは、春日部ゆかりの俳人、増田眠牛を弔うために建てられたものだそうです。
交差点の先が上町です。右手に埼玉りそな銀行、その向かいに見川本陣跡があります。ここには宿内の案内板が建っています。
次の交差点、新町橋西交差点が高札場跡で、街道はここで右折し、新町橋で大落古利根川を渡ります。橋の上流側は上喜蔵河岸(かみきぞうかし)がありました。その上流側で大落古利根川に古隅田川が合流しています。
古隅田川は、かつての利根川の流路と考えられます。もともと利根川は、おおむね、現在の葛西用水、古利根川、古隅田川(埼玉県)、元荒川、中川、古隅田川(東京都)、隅田川の流路を辿っていました。(時代によって変わっていると思います。)
新町橋西交差点を直進すると最勝院に突き当たります。この辺りは寺町で寺院が並んでいます。
最勝院には、後醍醐天皇に味方して戦った春日部重行の墓と伝えられる塚があります。
新町橋を渡り、次の交差点を右折して進みます。
しばらく行くと右手に小渕一里塚跡があります。その先が関宿道との追分で、関宿道追分道標があります。追分の左手に桐箪笥の店があります。春日部は桐箪笥作りが地場産業です。
江戸時代初期、日光東照宮を作るために集まった職人が、日光街道の宿場町である春日部に住みつき、周辺で採れるキリの木を材料とした指物や小物を作り始めたのが始まりと伝えられています。現在、組合には14の事業者が登録されています。
また、春日部は、麦わら帽子作りも盛んで、岡山県浅口市と並び、国内の2大生産地となっているとのことです。
追分を左に進み、小渕の交差点で国道16号線を越えると人家がぐっと少なくなります。
交差点から少し行くと左手に小渕観音院があります。小渕観音院は正式には正賢寺といい、1258(正嘉2)年創建と伝えられる古刹です。
さらに行くと小渕北交差点で、ここは北春日部駅入口です。その先のコンビニでやっと昼食にありつけました。
概ね、埼玉県の中部東部は、大河が北東部から南東に向かって流れており、その川によって地域が細長く分けられています。奥州街道は日本橋方面から真っ直ぐ北へ向かっているので、足立郡→埼玉郡→葛飾郡と辿ることになります。
それぞれの郡域は、河川の付け替えと町村合併でめまぐるしく変わり、きちんと跡付けができません。また、かつての葛飾郡は、現在は東京都、千葉県、埼玉県に分割されています。葛飾郡自体も武蔵国だったり、下総国だったり揺れ動いているようです。
さらに、荒川、利根川を中心とした河川の付け替えも複雑であり、これもしっかりその変遷を辿れませんでした。
さて、杉戸町に入ると「すきすきすぎーと36」という国道4号線のパーキングスペースがあります。36とは北緯36度線に因んだもので、その手前には北緯36度線のモニュメントがあります。かつては、道端に食堂があったようですが、今は営業をしていません。バイパスや高速道路の開通でクルマの流れが変わったのでしょう。
本郷という地を通りすぎ、堤根に入ります。堤根(南)歩道橋の手前で、左手の旧道に入ります。
少し行くと左手に九品寺があります。大きな地蔵を中心に6体の少し小さな地蔵が並び、旅人を見送ってくれています。堤根の地名はこのあたりの古利根川の堤に由来するものでしょう。
堤根南交差点から再び4号線と合流、さらに700m程行って、堤根交差点で再び左手の旧道に入ります。
3 杉戸宿
旧道に入ると間もなく三本木の一里塚跡があります。民家の垣根の向こうに案内板が建っています。
杉戸の地名は、古くからこの辺りに利根川の渡しがあり、杉の渡しと呼ばれていたことに由来するようです。杉戸町は、人口約4万5千人。春日部市との合併協議は凍結されているようです。
しばらく行って、町役場入口辺りからが杉戸宿です。
杉戸宿は、本陣1、脇本陣2、旅籠46、宿内人口1663人でした。都市化があまり進んでおらず、古い家も残っています。幹線道路や鉄道路線から少し離れているため、落ち着いた街並みとなっています。
役場入口のすぐ先に、清酒「杉戸宿」をつくる関口酒造があります。かつては「豊島屋」と称していました。
その先の伏見屋という酒屋の先で右手からカーブした道路が合流し、JA埼玉みずほの前を通って続いています。暗渠となっている南側用水路です。
1660(万治3)年に古利根川から引水されました。現在も葛西用水路から分水し、大落古利根川の東側の水田を潤しています。
JAの手前には高札場が再現されています。
その先の左手、扇屋という洋品店はかつては旅籠扇屋だったとのことです。間口が狭く奥に長い町屋の形をしています。
右手の「お茶の一休」は名主問屋渡辺家の跡です。
その隣が釘屋嘉右衛門邸跡と思われます。
その先の三井住友信託銀行が問屋場跡で、前に明治天皇御休所址の石碑が建っています。
その角の交差点が東武動物公園駅入口。交差点の向こうの「薬局とらや」は江戸時代からの薬屋です。