ごまめの旅日記

街道等の歩き旅を中心に旅の記録を紹介します。

奥州街道を歩く 4 杉戸宿〜南栗橋駅

2017(平成29)年11月14日(火) 曇りのち雨
 
 今回は、杉戸宿の途中から始め、幸手宿を通って、栗橋宿まで行く予定でしたが、雨が降り始めたので、南栗橋駅でリタイヤしました。途中、桜で有名な権現堂堤の散策を行いました。
 今回も断っておきますが、7年前の記録です。
 
目次

1 杉戸宿後半

 東武動物公園駅から杉戸宿に戻り、とらや薬局の前から本日のスタートを切ります。天気は今ひとつです。

 とらや薬局の並びに埼玉県信用金庫があり、その先に大東武観光という表札が街路灯に架かった家の手前の奥まったところに古い門と大きな松が見えます。ここが本陣長瀬家跡のようです。その両隣が脇本陣だったようです。現在、遺構は残っていません。東側脇本陣蔦谷家が、西側脇本陣酒屋伝兵衛が勤めていたとのことです。

 

本陣長瀬家跡

 愛宕神社前の交差点の先、右手にある渡辺金物店も歴史的な建造物です。ここでは、月1回「クラブ茶屋」という催しが開催されるということです。昭和を思わせる車庫が印象的です。

(2024年12月の追記:現在、渡辺金物店には「八百宿」プロジェクトがかかわっているようです。詳細は以下のリンクを)

 

渡辺金物店

www.town.sugito.lg.jp

 その先、道が緩く右にカーブするところの左手に「角穀(かどこく)」と呼ばれる古民家があります。米穀店を営んでいた小島定右衛門邸です。その先の右手には杉戸銀行の創始者である渡辺勘左衛門邸があります。

 

角穀 小島定右衛門邸跡

 

渡辺勘左衛門邸

2 大島・茨島

 道なりに進むと、やがて国道と合流します。その先は、国道が一直線に伸びています。

 大島交差点を右に入るとそこには、「心学の道」という石碑が立っています。その先左手の稲荷神社の脇に「恭倹舎」という看板が掲げられた建物があります。これは心学者大島有隣と関口保宣が心学普及のために建てた私塾の跡です。その先右手の大木が林立する一角は、名主藤城家の屋敷です。

恭倹舎跡

 大島交差点に戻って街道を先に進むと、左手の山田うどんの駐車場の縁に茨島(ばらじま)一里塚跡の説明板があります。

 東武線の杉戸高野台駅入口を過ぎるとそこは幸手市です。幸手市は人口5万2千人。北は茨城県、東は千葉県と接する県境の町です。「ハッピーハンド」を合言葉に町おこしが行われているとのことで、市民に選ばれた著名人の手形が展示されています。意外にも、人口減少が進んでいます。

駅前通りに展示されている手形

 そこから600m程で国道から別れ、斜め左に入り、ジョイフル本田の広大な駐車場の間を通って、東武線の踏切を渡ります。その先には圏央道が上空を横切っています。


3 幸手宿

 そのまま進むとやがて、スーパーマーケットのベルクに突き当たります。ここは、日光街道日光御成街道の合流点です。

日光街道御成街道合流点

 ちょっと寄り道して御成街道の方に入って行くと間もなく、柵に囲まれた用水路と出会います。琵琶溜井です。ここで葛西用水から中郷用水路と南側用水路が分水しています。現在は改修されていますが、元は1660(万治3)年につくられたものです。その脇に御成街道の道標が残されています。

琵琶溜井からの分流

 日光御成街道は、日光街道脇往還で、中山道の本郷追分から分かれて、岩渕宿、川口宿などをたどり、幸手宿で日光街道に合流していました。将軍が日光に参拝するための専用道路でした。


 追分に戻って東武線の線路を越え、幸手宿へと入ります。

 幸手宿は、古くから渡し場があり、交通の要衝となっていました。幸手の名は、日本武尊が奥州征伐の時に上陸した「薩手が島」に由来するそうです。中世では一色氏が支配していましたが、江戸時代は天領となり、宿場が置かれました。幸手宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠27、家数962軒、宿内人口3937人と大きな宿でした。

 右手から旧国道が合流してきたところに橋があります。志手橋です。右手には神明神社、ここには高札場がありました。また、几号高低標という明治初期に東京〜塩竃間を測量したときの標識が残されています。

 その先右手に「喫茶上庄かふぇ」があります。元醤油醸造業上埜屋の建物で有形文化財です。

 はす向かいには明治天皇行在所跡の碑があります。明治天皇は名主中村家に2度、宿泊しています。

明治天皇行在所跡

 その先が駅入口です。駅前通りは広く、人通りは少ないです。駅の向こうの一色氏ゆかりの幸手城跡を目指しましたが、線路が越えられませんでした。

 街道に戻り先に進みます。

 中一丁目に入ると、「あさよろず」という現代的な旅館の建物があります。1819(文政2)年創業で、板垣退助伊藤博文も宿泊したようです。

 その先の信号の手前に「永文商店」という酒屋があります。ここには、店頭から裏の倉庫に向かって荷さばき用のトロッコ横町鉄道」があります。北側の壁面には、芭蕉曽良のイラストが描かれています。

永文商店

 交差点の右手の公園が問屋場の跡です。その隣には米穀商だった平井家、その向かいには石炭商だった武村家の古い商家があります。そして次の信号の手前の左手の割烹義語家が本陣「知久家」の跡です。

本陣知久家跡

 その先にも、古い商家が散見されます。まっすぐ行き、荒宿の交差点を過ぎると左手に歴代将軍が休息したという聖福寺があります。その先、街道は右にカーブしますが、直進すると将軍となる前の徳川家綱が宿泊したとされる正福寺があります。街道はカーブの先の信号を左折し、国道へと向かいます。

 

聖福寺


4 権現堂堤

 内国府間(うちごうま)というところで国道と合流し、北へ向かいます。このまま行くと、行幸橋で中川を渡り、栗橋へと向かうのですが、途中で右折して、桜の名所として有名な権現堂堤へ寄ってみたいと思います。

 北公民館の脇から交通量の多い県道を渡り、公園内へと入っていき、さくら堤に上がります。脇に用水路に水を引くための巡礼樋管があります。新圦(しんいり)という煉瓦作りの樋管が残っているはずですが、よくわかりません。

巡礼樋管

 権現堂堤を中川側から見ると堤が長く続き、桜が植えられているのが分かります。桜の花の頃は大変な人出だと聞きます。ここの特徴は、堤上の桜と堤の下の菜の花のコントラストだと思います。

権現堂堤

 

桜の花が咲く頃

 権現堂堤は、江戸時代の天正年間に、当時利根川の本流であった権現堂川の洪水を防ぐためにつくられたものです。明治初期に天皇行幸したため、行幸(みゆき)堤とも言われます。

 外野橋を渡り、中川の対岸へ行ってみます。ここは茨城県五霞町です。共同印刷の工場があります。

 左手に行幸(みゆき)水門があります。

 権現堂川は、江戸時代以前は渡良瀬川の流路で下流は太日川と呼ばれていました。江戸時代の初期に利根川渡良瀬川の流路に付け替えられたため、権現堂川は、利根川の本流の一つとなります。しかし、大正期に権現堂川は締め切られ、かつての流路は調整池である行幸湖となっています。その水門が行幸水門です。

行幸

 行幸湖は、満々と水を湛え、雄大な景色を形成しています。晴れていればさらに絶景が拝めていたことでしょう。水門橋を渡り、行幸橋へと向かいます。

 

5 国道4号線に沿って

 街道を正しく歩いてくると、行幸橋を渡ったらすぐ左折して土手沿いに下りていきます。下りきったら右折して国道と平行するやや狭い道を行きます。

 外国府間の交差点に向かう道との十字路を越えて少し行くと三叉路になっていて、そこに石の道標が立っています。日光街道筑波道との追分です。

筑波道との追分

 筑波道の方へ行って権現堂川を渡ると元栗橋というところに出ます。もとはここに房州渡し栗橋というものがあり、街道はここを通っていたものと考えられます。また、一時、古河公方の居城となっていた栗橋城の跡があります。

 日光街道方面へ少し行くと右手に昔ながらの「なんでもや」風の吉羽商店があります。その先の三叉路は右へ行き、雷電神社の前に出て、道なりに進み、国道4号線の築堤に沿って進みます。


 この辺りで、小雨がぱらついてきました。雨は予想していなかっで、傘は用意していません。夕方用事があるので、栗橋まで行くのは難しいと思っていしたが、やはり、この辺が潮時のようです

 小右衛門交差点の下のトンネルを抜ける久喜市栗橋町に入ります。雨は本降りになりそうな気配なので、途中ですが、ここで諦めて本日のゴールとします。

 南栗橋駅方面へ向かい、南栗橋駅から帰路につきました。

 

旅の記録

スタート 東武動物公園駅入口    9:50

ゴール  久喜市南栗橋小右衛門陸橋  13:20

歩いた道のり 約11km(権現堂堤方面の散策を含む)

歩いた時間  約3時間30分