ごまめの旅日記

街道等の歩き旅を中心に旅の記録を紹介します。

奥州街道を歩く 15 その1 白河の関

018(平成30)年9月24日(月)晴れ

7年前の記録です。

 3日目。本日は、まず、レンタカーを借りて松平定信が確定したという白河の関跡を探訪します。その後は、白河宿を後にして、矢吹宿まで歩き、帰宅する予定です。

 

目次

 

1 新白河から白河駅

 レンタカーの時間が9時と少し余裕があるので、新白河のホテルから谷津田川沿いに歩いて白河駅まで行くことにします。

 新白河駅東口のカーサホテル新白河から真っ直ぐ東に出て谷津田川に出て、川沿いを進みます。川は北東から東に向きを変え風神山の北側を通って奥州街道を横切り、市役所の南側へと続いています。市役所の南側まで来ると天狗の鼻のように出っ張った岡を迂回してから、東へと流れています。

 この急カーブの辺りは渓谷をなしていて、山間地にいるようです。町の真ん中にこのような渓流があるのは珍しいと思います。ヘアピンカーブの曲がり際に、水車小屋が復元されています。

復元された水車小屋

市役所南の谷津田

 昨日訪れたハリスト教会の脇を通って白河駅に向かいます。

 現在、白河駅があるところも元は城の縄張りで、駅の西側では石垣が発掘され、公園として整備されています。その中に道場門跡があり、その西側には大きな妻切り屋根の市立図書館、東側にはイベント広場があります。

道場門跡

2 白河の関

 9:00になったので、駅脇の観光案内所に行ってワンコインレンタカーを借ります。軽自動車ですが1時間500円で借りられます。ちょっと歩きではいけないところに行くのにちょうどいいです。ありがたい。

 駅前から奥州街道を戻って白坂宿の南から芭蕉の辿ったといわれる道を通って白河の関跡へ向かうと、30分ほどで到着しました。

 ここは白河神社と呼ばれ、玉津島明神、住吉明神その他を合祀した神社です。白河藩主だった松平定信が文献を検討してここが古代からの白河の関であると確定し、古関蹟碑を建てました。後の発掘調査で、土塁、空堀、柵木の跡が発見され、ここがある時期に白河の関として機能していたと比定されています。

 

 白河の関が関所として機能していたのは平安中期頃までと考えられますが、その後も東山道はここを通っており、源義家源義経もここを通ったのではないかと思われます。江戸時代には、白坂宿を通るルート(白坂筋)がメインルートとなっており、白河の関の場所は分からなくなっていました。(というのが定説です。)

 ただし、前回でも報告した通り、白河筋は、かなり古くから存在していたという説があり、また、メインルートが旗宿筋から白坂筋に移った時期も正確にはわからないので、白河の関を通ったとされる著名人が、白坂筋を通った可能性が否定できません。

 能因は旗宿筋を通り、それを追った西行が白坂筋を通った可能性もあると思います。

 また、江戸時代の多くの通行人が、白坂筋の境の明神が古来からの白河の関と信じて通行していた可能性もあり、芭蕉松平定信のように「古来の白河の関は他にある」という認識がどの程度広まっていたのかは、わかりません。

 神社へ行ってみると巨木が林立する鬱蒼とした杜を前にして古い石の鳥居と狛犬があります。右脇には松平定信が建てた古関蹟の碑が、その前には源義家が幌を架けて休息したといわれる幌かけの楓があります。その他に境内には義経が矢を立てたといわれる矢立の松義経が植えたといわれる旗立ての桜、藤原家隆が植えたといわれる樹齢800年の従二位の杉などがあります。著名人のオンパレード、まさにここは、歴史的な場所です。

白河神社入口

古関蹟の碑

 

 長い石段を登っていくと古い本殿があります。伊達政宗が奉納したといわれていますが、真偽は定かでありません。神社の南側には出土した土塁や空堀があります。この辺りに関所があったのでしょう。

空堀

 白河の関は歌枕として古歌に詠まれてきました。代表的なものを挙げると

「たよりあらば いかで都へ告げやらむ けふ白河の 関は越えぬと」(平兼盛

「都をば 霞とともにたちしかど 秋風ぞふく 白河の関」(能因)

 ともに都を離れて最果ての地へ来てしまったという感慨を表しています。

 能因を追った西行

「白川の 関屋を月の まもる影は 人の心を 留むるなりけり」

 と詠んでいます。能因の「秋風」対して西行は「月影」に旅愁を込めたのでしょう。

 芭蕉白河の関を探して白坂宿の手前からこの辺りを探索し、すぐ北側の旗宿に一泊しています。そして、宿の主人の導きでこの白河神社を訪れたとされています。

 しかし当時は、ここが白河の関であると確定していなかったため、芭蕉が歌枕の地での感慨が得られたかどうか不明です。

 奥の細道の本文には白河の関に因む歌を7首も取りあげています。芭蕉がいかに白河の関を訪れることを重要視していたかが分かります。それなのに、芭蕉は自分の歌を記していません。他の文献から歌を詠んだことは間違いないようですが…。

 ここでも、芭蕉にとって歌枕の地は、掴んだと思うと消えてしまう幻だったのでしょう。

 芭蕉一行は、旗宿を後にしてから関山が白河の関かどうか確認し、宗祇戻しを経て白河宿へと向かっています。私も、旗宿から関山の麓を通って白河駅へと戻ります。

 

(追記:2025年2月)

残念ながら観光案内所のワンコインレンタカーは2023年11月で終了しています。

比較的安いレンタカーは以下の「タイムスカー」新白河駅ですけど

rental.timescar.jp

 

 2018年の時には、整備が始まっていましたが、現在の白河の関跡は、観光化が進み、一帯は「白河関の森公園」となっています。

パンフレットはここから↓

https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/jgcms/admin53829/data/doc_dummy/1661739209_doc_72_0.pdf

 

 人は大勢来るようになったと思いますが、「侘び寂び」を重んじる芭蕉や和歌を愛する人々がこのような事態をどう感じるのでしょうか。

 

その2へ続きます。