日本橋から千住宿までは、2017年8月の奥州街道の旅で詳しく記録していたので、今回はこれを公開します。
すでに7年近くの月日が経っているので、現在は様子が変わっているかもしれません。
はじめに、新たな街道への旅立ちということで、決意を語っている部分がありますので、ここから始めます。
奥州街道を歩く 2017年8月22日スタート
次なるグレートジャーニーは、奥州街道。
今回の旅は、ゴールが決まらない。松尾芭蕉「奥の細道」の跡を辿るのか。奥州街道本道を通るのか。青森までか、函館までか。
まず、一歩を踏み出そう。ゴールは追々、考えるとしよう。
時空を越えて 旅は続く
壮大なテーマです。
奥州街道は終わりがはっきりしません。幕府が管轄していたのは白河までと言われています。
その先は仙台道と言って、参勤交代で使用する藩が管理していたと思われます。(違っていたら誰か教えてください。)
最終は、松前藩が北海道に渡っていた港がある青森県の三厩であると考えられます。スタートの時点ではどこまで行けるか見当がつきませんでした。
奥州街道の旅ではさらに2つのテーマを加えています。
1 松尾芭蕉「奥の細道」の跡を辿り、芭蕉の旅の意味を理解する。
2 戊辰戦争の跡を辿り、明治維新について、特に東北の立場から考える。
その他 東日本大震災の影響について考えたり、東北の厳しい気候の洗礼を受けて東北の暮らしについて思いを寄せたりしています。また、中央と地方の格差を目にする機会が多くあり、今後の日本を憂いたりしています。
それでは、日本橋からスタートします。
3年半ぶりの日本橋
大伝馬町 小伝馬町
かつての奥州街道は、室町3丁目南交差点を右折します。そして右折した先で昭和通りに行く手を阻まれます。地下道をくぐって反対側に出ると左手に小津和紙のビルがあります。小津和紙の後ろを左に入ったところに「寶田恵比寿神社」があります。「べったら漬け」の発祥の地だそうです。
その先は、室町から本町、そして大伝馬町となります。かつては呉服商が建ち並んでいたと聞きます。
「AskaV日本橋」のビルの向こう側に赤い御影石でできた「日光街道本道り」の道標があります。これは、昭和の時代に建てられたものだそうで、本通りは、現在は「大伝馬本町通り」となっています。江戸時代の地図を見ると日光街道や中山道は「微高地」つまり、古くから陸地だったところを通っていることが分かります。
十思公園
少し本通りから逸れます。その先の信号のある交差点を左折して小伝馬町交差点を越えた左手に「十思公園」(じっしこうえん)があります。手前の大安楽寺には「伝馬町処刑場跡の地」と朱で書かれた石碑が建ち、異様なムードを醸し出しています。
十思公園は伝馬町牢屋敷跡です。ここは、吉田松陰が処刑された場所として知られています。井伊直弼による安政の大獄のときに捉えられた吉田松陰は、ここ、伝馬町牢屋敷に拘留され、獄中で「留魂録」を書き、斬首されています。辞世の句が刻まれた石碑が公園の外縁に設置されています。
吉田松陰は、今回の旅のテーマにとって重要な人物です。通説では、開明的で情熱的な維新の魁として、また、維新を担う人々を育てた教育者として知られています。しかし、近年、明治維新の見直しを試みる書籍も出版されており(一例を挙げると原田伊織「明治維新という過ち」毎日ワンズ刊)、再考が必要と思われます。
公園の中央には「石町時の鐘」が設置されています。鐘は、江戸時代に時を告げていた鐘で、鐘楼はコンクリート製です。ここは都会のオアシスで、ベンチに座って休む人も多いようです。しかし、なんとなく異様な空気を感じます。しかも、ここはかつて小学校(十思小学校)があったというから驚きます。その土地には、その土地なりの歴史が綿々と積み重なっていることを強く感じさせます。
通旅籠町 横山町
本通りに戻り、奥州街道の旅を続けます。アパホテル、東横インが並ぶ辺りは、かつて「通旅籠町」と呼ばれ、往時から旅籠が並んでいたらしいです。右手奥には移転前の吉原がありました。その先は、横山町で、かつての問屋街ですが、現在も問屋があります。
両国広小路跡 浅草見附跡
街道は、やがて大きな道路と合流します。合流した先が浅草橋の交差点で、交差点の左手は「両国広小路跡」です。広小路は明暦の大火の後、延焼を防ぐための火除け地としてつくられたものです。また、明暦の大火の時に多くの人々が隅田川を渡れずに亡くなったことを教訓として両国橋が架けられたとのことです。ここから両国橋を渡って東へ向かうのが現在の国道14号線、京葉道路です。
複雑な交差点を地下道で横断すると、東日本橋交番の脇に「郡代屋敷跡」の説明版があります。この辺り(日本橋馬喰町2丁目)にかつて関東郡代の役宅があったということです。
ここからは江戸通りに沿って進みます。浅草橋で神田川を越えると台東区に入ります。左手に「浅草見附」の石碑があります。浅草見附は日光街道の通行を取り締まるために門を築き、警備役を置いていたもので、門は浅草橋より南にあったと考えられます。古地図を見ると、橋の南側に枡形が描かれています。
浅草見附の石碑
蔵前
浅草橋を渡り、総武線の線路をくぐったその先は「蔵前」です。隅田川の畔に幕府の御米倉が置かれていました。現在の都立蔵前工業高校や蔵前ポンプ場がある場所です。その西側の地域を蔵前と呼ぶようになりました。
ポンプ場のある場所には、かつて「蔵前国技館」がありました。蔵前橋のたもと、道路の両側に「御米倉の碑」蔵に入る水路の畔にあった「首尾の松」の碑と「力士のレリーフ」が並んでいます。
蔵前1丁目交差点に「浅草天文台」の説明版があります。江戸時代につくられた天体運行や暦の研究機関である「天文方」の役所です。ここ、浅草に移ったときに初めて「天文台」の名称が用いられました。伊能忠敬が髙橋至時から測量や天文学を学んだのがここです。
浅草
その先が浅草です。駒形橋西詰交差点から江戸通りを離れて、雷門へと向かいます。雷門の前の交差点の右手に変わったデザインの浅草文化観光センターの建物があります。この辺りに浅草の一里塚があったといわれています。
浅草寺の始まりは非常に早く、628(推古天皇36)年に現在の隅田川で漁をしていた檜前浜成(ひのくまのはなまり)竹成(たけなり)兄弟の網にかかった観音像を祀ったものとされています。江戸時代以降、境内や周辺は一大歓楽地となり、現在まで大いに賑わっています。
今回は浅草寺には入らずに、雷門前を右折し、吾妻橋方面へ向かいます。神谷バーの前を通り吾妻橋交差点へ。通りの向こうには東武鉄道の浅草駅、その奧には隅田川クルーズの乗船場、吾妻橋の向こうには、巨大なきんとん雲を掲げたアサヒビールの建物、スカイツリーも大きくはっきり見えます。
江戸通りに戻り、浅草駅の脇を抜け、東武線のガードをくぐって進みます。少し行くと言問通りとの交差点。右手は言問橋。江戸通りはここまでです。隅田川沿いの隅田公園内に東京大空襲慰霊碑があります。ここから、斜め左に入り、吉野通りを南千住方面に向かいます。
右手には浅草七福神の1つ、待乳山聖天(まつちやましょうでん)があります。ビルに取り囲まれ、わかりにくいですが、小さな丘の上にあります。この丘は古くから隅田川の畔にあったようです。
その先、かつての山谷堀の跡である山谷堀公園を横切って進みます。山谷堀を開削した土で堀に沿って築かれたのが日本堤です。隅田川が氾濫した際に江戸市中を守るためのものです。山谷堀を上っていくと吉原の入口があったので(1657年の明暦の大火以降日本橋人形町からこちらに移転した)、吉原へ通う旦那衆は船で山谷堀を行き来したということです。
山谷橋の右奥、都立浅草高校の運動場からその北側にかけて、弾左衛門屋敷がありました。周囲を寺社に囲まれ、外から見えにくくなっていたようです。
雷門
山谷
吉野通り(かつての山谷通り)の西側は、山谷と呼ばれた地域です。労働者向けの低料金の旅館が集まる地域でした。今は、バックパッカー向けのモダンな宿も増え、様子が変わりつつあります。通りを少し行くと左手に「マンモス交番」と言われた4階建ての日本堤交番があります。その先の明治通りとの交差点は「泪橋」交差点です。かつて、ここに思川が流れており、通称「泪橋」が架かっていました。小塚原で処刑される罪人が付き添ってきた身内の者たちとの今生の別れの場でした。
マンモス交番の奧に、300mにも及びアーケード街「いろは会ショップメイト」があります。ここは、マンガ「あしたのジョー」のふるさとというキャッチフレーズを掲げています。マンガ「あしたのジョー」では、泪橋の下に丹下ジムがあり、人生に敗れドヤ街に流れ着く者が涙を流すので泪橋と呼ばれているという設定になっていました。
南千住
隅田川を渡り終えると足立区の千住です。小さな公園の中に「奥の細道矢立ての碑」があります。松尾芭蕉と同行者の曽良は、深川から墨田川を船で上り、千住の船着き場で下船しました。そこで見送りの人と別れ「行春や 鳥啼魚の 目に泪」と矢立ての句を残し「みちのく」へと旅だっていきました。悠久なる旅への思いが芭蕉の心を支配したに違いありません。
俳人の長谷川櫂氏は、芭蕉の句を「現実の世界」と「心の世界」の2つで分析します。「行春や」は芭蕉の心の世界、「鳥啼魚の目に泪」は見送る人たちの様子、すなわち「現実の世界」です。表現は比喩ですが、芭蕉は死を覚悟して旅立とうとしているので、今生の別れになるかもしれないと大袈裟な表現をしています。この句は、「奥の細道」の大垣での最後の句「蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ」にぴったりと対応しています。この様式美は見事です。しかし、表現の仕方に変化があります。長谷川氏はこの変化こそ「奥の細道」の旅の意味だと考えています。
北千住
4号線に沿って進むと足立市場前の大きな交差点に出ます。右手に足立市場がある。そちらの方に横断して足立市場の塀に沿って進むのがやっちゃ場通りで、これが旧日光街道です。通りの入口には奥の細道のモニュメントがあります。芭蕉らもここを北へ向かったのでしょう。
「やっちゃ場」とは青果市場のことで、この先この通りに面して江戸時代の前から始まった青果市場があり、1720年には幕府御用達の江戸三大市場の1つとなり栄えたそうです。京成線のガードの手前に南詰の標識があります。ここから北側がかつてのやっちゃ場です。往時の町並みは失われましたが、家々に掲げられた屋号の標識がそれを今に伝えています。少し行くと千住宿歴史プチテラスがあり、ここにかつてのやっちゃ場が再現されているとのことです。この先の千住仲町交差点角のコンビニの壁に「やっちゃ場北詰」を示す標識があります。
交差点を越えて直進します。この辺りはかつて「掃部宿」と呼ばれ、1598(慶長3)年頃千住宿に付け加わった地域です。この地域の開発者、石出掃部亮吉胤に由来します。宿の成り立ちを示した説明板が掃部宿憩いのプチテラスというポケットパークに建てられています。
先に進むと信号のある交差点の角に、ややわかりにくいですが高札場跡、一里塚跡の石碑が建っています。正面を見ると「千住ほんちょう商店街」と大きく書かれています。この先がもともとの千住宿です。左手の東京芸術センターの前の広場の縁に「問屋場・貫目改所跡」の説明板があります。
千住宿 本陣跡付近
本町商店街は非常に賑わっています。駅近であることと、大型商業施設がないためでしょうか。板橋の商店街と雰囲気が似ていますが、こちらの方がより賑わっていると思います。少し先の右奥に入ると森鴎外の旧宅跡があるはずですが、ここは工事中でした。
北千住駅入口の信号を過ぎると「宿場町通り」と看板が切り替わります。看板の手前の左手、100円ショップ辺りが本陣跡らしい。千住宿は、空襲で焼け野原になったために、当時の面影はほとんど残っていません。
千住宿は本陣1、脇本陣1、旅籠55、宿内人口9956人で、宿の長さは2里8町と9㎞にもおよぶ長大な宿でした。
その先は、次第に商店が少なくなりますが、右手のほんちょう公園の入口に高札場跡の説明板があります。少し行くと右手に横山家住宅、左手に絵馬屋があります。その先のレトロなだんごや「かどや」を過ぎると歩道が大きな交差点があります。ここが水戸街道との分岐点です。また、その先の道幅が狭くなるところに日光街道と下妻街道との分岐を示す道標があります。右手には江戸時代から「ほねつぎ」として名が知られていた名倉医院があります。さらに直進すると荒川の土手に突き当たりますが、当時は荒川は無かったので、田圃の中を直進していたのだと考えられます。当時はどこを通っていたのかよくわかりませんが、今は国道4号線の千住新橋で荒川の北へ渡ります。
土手に上がって左手上流の方を見ると千住新橋が見えます。千住新橋のたもとに「学びピア21」の高い建物があります。下層は区立図書館と生涯学習センター、上層はマンションとなっています。ここの7階のレストランには展望デッキがあって荒川やこれから行く先の竹の塚方面がよく見渡せます。
千住新橋
梅田 島根 竹の塚
千住新橋を渡り、渡り終えたら橋の下をくぐり、上流方向へ行きます。善立寺というすっきりした形の寺のところから北へ向かうのが日光街道です。ここからは梅田地区です。梅田の地名は、湿地を埋めて田圃をつくったことに由来するようです。ここから埼玉県境の毛長川流域まで街道はほぼ直進します。
しばらく行くと、右手から道路が合流し、前方に東武スカイツリーラインのガードがあります。ガードの下は梅島駅。住宅と商店が入り交じった真っ直ぐな通りをひたすら北進します。その先、環状7号線との交差点である島根交差点があります。
北上すると「増田橋」交差点がある。かつてここには竹の塚堀があり、増田橋がかかっていたとのこと。また、ここには赤山道との分岐を示す道標がある。赤山道とは、関東郡代伊奈氏の居城である赤山に通じる道です。
増田橋交差点
その先、街路樹がある大きな通りと交差します。右へ行くと元淵江公園、左へ行くと竹ノ塚駅です。さらに進むと大曲に至ります。毛長川がつくった湿地を迂回するためのカーブであるとのことです。
毛長川
大きな右カーブの先に国道4号線のガード、その先は道が狭くなっており、右手から来た旧4号線と合流します。そして、少し行って毛長川を渡ります。毛長川は、かつての入間川にあたり、少し下流で綾瀬川に合流します。かつては大きな川だったのでしょう。ここから埼玉県草加市です。そして、少し行くと右手に浅間神社が見えます。ここが谷塚駅入口です。本日の旅はここまでとします。時刻16:30
旅の記録
スタート 日本橋 9:30
ゴール 谷塚駅入口 16:30
道のり 約17km