ごまめの旅日記

街道等の歩き旅を中心に旅の記録を紹介します。

水戸街道を歩く 3 柏駅〜取手駅

水戸街道 3 柏駅取手駅

歩いた日 令和6年6月6日(木) 天候 曇り時々晴れ

奇しくも「666」の日になりました。(元号なので関係ないですが)

新約聖書ヨハネの黙示録」で「人間の数字」もしくは「獣の数字」とされている数字です。

(話題がそれますが、「炎のランナー」の作曲者・バンゲリスがかつて在籍していたロックバンド「アフロディテスチャイルド」のアルバム「666」は結構面白い。)

 せっかくの旅行、できるだけ天候の良い日に歩きたいものです。梅雨入りする前に取手まで行っておきたいと思って、歩きに出ることにしました。天気予報では、晴れるはずだったのですが、どうも雲が多いらしいです。ちょっと残念です。

 柏から取手まで、街道だけでは13kmくらいなのですが、途中、手賀沼で寄り道するので、20kmくらいの道程になりそうです。8:45元気に柏駅を出発。

 

再び柏市について細かく

 柏駅では南口というのがあることを知りました。まるで新宿駅のようです。南口を出ると、ビルの谷間のアーケード街に入り複雑です。慣れると、とても便利なのでしょう。店舗がひしめいているのにびっくりしました。

 柏市の歴史を調べると結構複雑です。まず、旧柏村は東葛飾郡の柏村と印旛郡の柏村があったようです。それらは1889(明治22)年に周辺の村と共に千代田村に統合されます。その後、1926(大正15)年に柏町となります。なぜ、「千代田」ではなく「柏」にしたのかは不明ですが、想像するに、1896(明治29)年にできた柏駅を中心に町が形成されていたからではないでしょうか。柏に駅を誘致したことがその後の発展のきっかけになったのではないかと思います。その後、1954(昭和29)年9月1日に小金町、田中村などと合併し、東葛市となります。しかし、小金町の住民を中心に異議が起こり、旧小金町は一部を残して松戸市と合併することとなり、11月15日に東葛市は柏市となります。市町村合併は難しいですね。

 北部地域についてふれます。旧士族の入植地の一つである十余二には、1938(昭和13)年に、首都圏の防空のために「柏陸軍飛行場」ができました。終戦後、引揚者らが入植し開墾していましたが、朝鮮戦争が始まるとアメリカ軍に接収されてしまいました。その後地元の働きかけ等により、1979(昭和54)年にやっと全面返還され、現在は、柏の葉公園東京大学千葉大学のキャンパス等になっており、急速な発展を遂げています。特に、つくばエキスプレス柏の葉キャンパス駅周辺は、現代的な街となっており、発展が続いています。開発可能な広い土地があったのも発展の要因かと思います。(入植した人たちはどうなってしまったのでしょうか?(ごまめのはぎしり))

柏市役所付近

 レイソル通りを通って柏神社のところから水戸街道に出ます。江戸時代には馬場の土手を越える木戸があったそうです。北へ進むと前回述べた通り、サンサン通りとの交差点の左角に明治天皇小休所の碑があります。

 街道を北へ進むと、右手にホールや公民館機能を備えた「アミュゼ柏」があります。柏町当時の役場があった場所のようです。

 その先、常磐線を高架で越えてくる道と交差します。左手のトヨタレンタカーの先を左折すると、小さな丘の上に諏訪神社があります。創建は江戸時代、1907(明治40)年に近辺の6社を合祀したとのことです。諏訪神社を右に巻いていくと柏市役所があります。市役所の南側は、少し窪んでいます。その東にある中央公民館前から坂を登ると街道に戻ります。

諏訪神社

柏市役所

呼塚(よばつか)

 先に進むと国道16号線との交差点があります。信号には「旧水戸街道入口」という看板が付いています。さらに進むと常磐線に突き当たり、街道は線路で遮られています。道路は跨線橋で線路を越えますが、歩道がないので、跨線橋の右手に進んで線路と並行に進み、その先の歩道橋で線路を越えます。街道に戻ると、この先は緩やかに下り、大堀川に突き当たります。この辺り標高は3mほどです。柏市街地の標高がだいたい20mくらいなので、だいぶ下ったことになります。

 この先、かつては呼塚(よばつか)大橋で大堀川を渡っていました。そして、この付近には、呼塚河岸があり、手賀沼へ向かう船が発着していたとのことです。しかし、大雨になると手賀沼の水位が上がり、しばしば水害に見舞われたようです。街道沿いにあった常夜灯が、少し下流の北柏橋のたもとに移設されています。

 次に立ちはだかるのが国道6号線です。呼塚大橋は現存しないので、国道に出て、呼塚橋を渡りますが、街道は国道の向こう側にそれます。国道が横断できないので、少し行った先で国道をくぐり街道に戻ります。

呼塚河岸があった辺り

根戸(ねど)

 街道の北方には松ヶ崎城跡があります。詳細は不明ですが戦国期まで存在した砦のようなもののようで、曲輪が比較的良く残っているらしいです。かつて銚子から現在の手賀沼霞ヶ浦一帯は、「香取の海」という大きな潟湖が広がっていました。呼塚付近は、その西端にあたる場所で、軍事上あるいは物流上の拠点だったと考えられます。

 東へ街道を進むと根戸(ねど)地区に入ります。1954年まで、富勢(とみせ)村の中の旧根戸村の地域でした。富勢村では柏町との合併を希望する住民と我孫子町との合併を希望する住民とで折り合いがつかず、結局、分割して合併することになりました。その結果、旧根戸村とその北側の旧布施村の地域は、柏市根戸及び柏市布施と我孫子市根戸及び我孫子市布施に分かれています。やはり、合併は難しいですね。

 右手に北柏駅の入り口があります。このあたりは住宅地造成中のようです。そこから割と急な坂を登ると我孫子市根戸に入ります。左手に東陽寺があります。室町時代の創建と伝えられ、江戸時代には隆盛していたらしいです。よく整備された美しい寺で、境内では色鮮やかな紫陽花が咲いていました。この辺りは、敷地の広いお屋敷が多く、特に街道右手の妙蓮寺入口の隣のお屋敷は、入母屋造の大きな母家があります。

 その先、根戸城通りと交差します。この通りを南に行くと根戸城跡があります。根土城は松ヶ崎城と同じような機能を果たしていたと考えられます。

 さらに行くと街道は右に90°ほどカーブしてむきを南東に変え、国道6号線を越えると我孫子の市街地に入ります。街道は大きく迂回しているように見えますが、手賀沼の北側の丘陵地の稜線を通っています。沼の水位の変化の影響を避けるためではないかと考えられます。

東陽寺

我孫子宿

 我孫子市について調べてみました。我孫子市の人口約13万人。我孫子宿は水戸街道と成田道との分岐点として、また、西方の布佐(ふさ)地区は利根川水運の拠点として栄えました。市街地は主に手賀沼北側の標高20mほどの台地の上にありますが、近年は手賀沼北岸や天王台地区に住宅団地ができ、東京のベッドタウンとなっています。大正時代から昭和初期にかけては、志賀直哉武者小路実篤らが手賀沼畔に移住して、白樺派の拠点となりました。沼や河川の影響か、この辺りでは比較的気候が温暖のようです。

 我孫子宿は東西1kmに及ぶ大宿で、本陣や脇本陣がありました。本陣の離れが村川堅固の別荘に移築されているそうです。また、脇本陣の母家は健在ですが非公開です。布佐河岸は、銚子で上がった鮮魚の中継点でした。鮮魚は利根川高瀬舟で上り、布佐で陸揚げして、馬で松戸まで運び、松戸から江戸川を船で下って日本橋へ運んだとのことです。布佐から松戸までは鮮魚(なま)街道と呼ばれました。

 市街地を進んでいくと前方に歩道橋が見えてきます。街道は線路で分断されているので、歩道橋を渡って線路の向こう側に出ます。先に進むと線路を越えてきた国道356号線と出会います。この辺りが旧我孫子宿の入り口でしょうか。残念ながら昔の面影はなく、5階建くらいのマンションが並ぶ新しい住宅地となっています。我孫子駅入り口付近では商店も散見されますが、柏ほどの賑わいはありません。駅前には「イトーヨーカ堂」がありますが、お客は少ないように見えます。(失礼!)

 先に進むと丁字路に突き当たります。枡形でしょうか。街道はここを左折します。枡形手前左手の「割烹旅館角松本店」は江戸期には旅籠だったとのことです。左折した先が、宿の中心と思われます。少し先の「カーシェアTimes」の看板があるマンションの前に「本陣跡」の標柱があります。その先の左手には脇本陣の建物が現存しています。

我孫子市街地

本陣跡

脇本陣

白樺派の拠点

 ここで少し寄り道して、手賀沼畔方面に行ってみます。枡形のところから東に200mほど入ったところに杉村楚人冠邸園があります。杉村楚人冠(すぎむらそじんかん)は大正から昭和にかけて活躍した新聞記者・随筆家です。1872(明治5)年に和歌山市で生まれ、英語を学び、東京朝日新聞に入社して活動しました。関東大震災を機に我孫子市に移住しました。我孫子ゴルフ倶楽部の創立に助力し、手賀沼を紹介するなどの市の発展にも尽くしたそうです。近年、唱歌「牧場の朝」の作詞者が楚人冠であることがわかりました。園は手賀沼畔の段丘上にあり、深い森になっています。中には瀟洒な建物と庭園があります。

 そこから南に段丘を降りると「ハケの道」という東西に続く道に出ます。ここを東に行くと右手に白樺文学館、左手に志賀直哉邸跡があります。志賀は1915(大正4)年から1923(大正12)年までこの地で暮らし、「城崎にて」「和解」などを執筆しました。

 移住のきっかけは、1914(大正3)年に白樺派の文芸家の一人、柳宗悦が結婚して、叔父である嘉納治五郎の別荘がある手賀沼畔に引っ越してきたことのようです。柳の薦めで志賀が移住し、続いて武者小路実篤、そして陶芸家のバーナード・リーチが移住してきて、白樺派の拠点を形成するようになったそうです。気候も良く、程よく自然が残るこの地が気に入ったのでしょう。

 志賀はその後スランプに陥り、気分転換のために京都に転居します。武者小路は1918(大正7)年までここに居住し、以後「新らしき村」建設のため宮崎へと転出します。

 志賀直哉邸跡には、復元された母家の土台と書斎の建物があります。また、不思議な人形やU字型の焼き物がおいてあります。

付近の地図 あびこガイドブックより

杉村楚人冠邸園

白樺文学館

志賀直哉邸跡

寿・栄・柴崎(しばさき)

 街道に戻って先へ進みます。脇本陣の先で街道は大きく右にカーブします。カーブ左手には明治12年創業の料亭鈴木屋があります。鈴木屋は旅館でしたが、その後、料亭として経営を続け、令和4年に閉店しました。

 カーブして300mほど進むと水戸道と成田道との追分があります。交差点から斜め左に入る道があり、こちらが水戸街道で、直進が成田道です。現在は、道標・石塔群が二股の部分に集められています。

 斜め左に進んで少し行くと成田線我孫子市支線)の踏切があります。踏切の先は栄地区となります。

 住宅地を500mほど進むと下り坂となり、前方に車両基地が見えます。正式には「松戸車両センター我孫子出張所」という名称です。街道はこの大きな車両基地で分断されています。そこで、坂を降り切って線路沿いに進み、その先の県道8号線のアンダーパスで車両基地を越えます。アンダーパスに取り付いている右側の歩道を行くと、くぐった先の右手の崖のコンクリート護岸の切れ目の下に「水戸街道」の看板があります。これに従ってコンクリート護岸の切れ目を登り、突き当たりを右折し、藪の中を行くと車両基地の北側に出ます。そして道なりに水道局の東側を通って行くと西からくる道路と出会います。このルートが水戸街道の道筋のようです。

 特別養護老人ホームの脇の緩い坂を下っていくと交差点があるので、ここを左折します。この辺りから柴崎地区になります。左手に我孫子総鎮守の柴崎神社があります。柴崎神社は、日本武尊が、征途の安全と武運長久を祈願するため幣を立てたのが起こりとされ、938(天慶元)年の創建、また、平将門の祈祷所であったとも言われています。

 柴崎地区にも、広い敷地の大きな屋敷が散見されます。北と東に低地を望む舌状台地の上にあり、縄文遺跡や中世の城址(柴崎城)もあり、昔から栄えた地域なのかもしれません。

 

水戸道成田道追分

水戸街道案内表示

柴崎神社

 

取手・青山の渡し

 その先で国道6号線と合流します。国道は片側2車線で交通量が多いです。国道の北側は広大な田園地帯となっています。利根川の氾濫原でしょう。南側は青山台という台地となっています。

 日の出通りとの交差点の先は、側道を行きます。400mほど行くと右に折れてすぐ左に折れ、青山の集落に入って行きます。青山は非公式の宿場となっていたようです。ここも1軒の敷地が広く、板塀を持つ大きな屋敷もあります。

 500mほど進むと利根川の堤防に突き当たります。

 堤防に上ってみると、河川敷は打ちっぱなしのゴルフ練習場になっています。我孫子市はゴルフが盛んのようです。1931(昭和6)年にオープンした我孫子ゴルフ倶楽部は、名門ゴルフコースとして名を馳せています。

 練習場の先には、取手・青山の渡しの跡があると思われます。水戸街道利根川をこの渡しで渡っていました。

 堤防の上を西に進み、国道6号線の大利根橋で利根川を渡ります。利根川は滔々と流れ、雄大な風景が広がります。対岸には取手駅周辺のビルが見えます。下流側には常磐線の橋梁が並行しています。取手側の取手・青山の渡しがあったと思われる辺りには船着場が設置してあり、釣り船のような船が繋がれています。

 取手側の堤防を越えると歩道から下に降りる階段があるので、国道と垂直に交わる道に降ります。街道は利根川を渡ってから東の下流方面に向かっています。

大利根橋

 

青山取手の渡し付近 対岸に取手駅周辺のビル

取手宿

 取手市は人口10万人ほどで、利根川と小貝川に挟まれて地域にあります。「取手」の地名は「砦」(大鹿城)に由来すると言われます(諸説あり)。大鹿城跡は、現在、取手競輪場になっています。江戸期には宿場町として、また、利根川舟運の拠点として栄えました。1970年台以降は、ニュータウンの建設が進み、東京のベッドタウンとして人口が増えましたが、近年は減少傾向にあるとのことです。1982(昭和58)年に常磐線複々線化に伴い、地下鉄千代田線が取手まで乗り入れるようになりました。1991(平成3)年に東京芸術大学のキャンパスができ、その縁で「取手アートプロジェクト」を行っています。

 水戸街道は、江戸初期は、我孫子から利根川(当時は鬼怒川)の右岸(南側)を東に進み布佐付近で渡河し、若柴宿に至っていました。その後、ルートが青山の渡しで渡河するものに変更されて、天和から貞享年間(1681〜1688年)に取手宿ができました。往時は東西1km、200軒ほどの家が立ち並ぶ大宿だったとのことです。

 我孫子も取手も、かつては宿場町として栄えていました。柏は街道沿いの一村落でした。今は、柏駅周辺の方が栄え、我孫子や取手と格差が広がっているように見えます。旧宿場は、寂れる傾向にあるところが多いようです。環境や災害のことを考えると、山林を崩して新しい土地を開発するのではなく、旧来から人が住んでいる土地に持続的に住み続けられるようにしていくことが大切だと思います。そのためには、駅前の旧宿場の活性化を住民だけに担わせるのではなく、国の政策が必要だと思います。ごまめのはぎしり)

 県道を東へ進んで常磐線のガードをくぐります。市街地のすぐ南側には利根川の堤防が並行しています。堤防に出てみるとサイクルステーションがあり、その先の堤外の公園の先の河道付近には「小堀(おおほり)の渡し」の船着場があります。

 「小堀の渡し」は、利根川の河道改修で、もともと地続きだった小堀地区が利根川の対岸になってしまったために大正3年に設けられた渡し船です。船渡しが残っているのは珍しいですね。かつての利根川の流路は古利根沼として残っています。洪水の後早く水を排出するために小さい水路をたくさん掘ったのが、その名前の由来とのことですが、「小堀」と書いて「おおほり」と読むのが納得できないところです。

 街道に戻って東に進むと左手に「奈良漬製造元新六本店」という古風な看板を掲げた古い商家があります。「田中新六家」は、寛政年間は酒造業を営み、文政に至って舟運業を営んでいたそうです。明治に入る頃、奈良漬を作って近所に配ったところ評判となり、明治元年に奈良漬製造元として開業したとのことです。

 この辺りからが往時の取手宿です。200mほど進むと仲町のバス停があり、左手に筑波銀行があり、その隣の隣に赤煉瓦調の染谷本陣ビルがあります。その脇を入ると取手宿本陣染谷家住宅が残っています。残念ながら本日は休館日で入館できませんでした。週末は開館しているようです。

 本日の街道の旅はここまでとし、駅に向かうことにします。本陣の先から左手の丘の上に上ります。本陣の裏手を回って車が通れない細い道を行くと長禅寺の脇に出ます。

長禅寺は931(承平元)年に平将門が建立したと伝えられています。1219(承久元)年に大鹿城主・織部時平の命で再興されました。境内にある三世堂は1763(宝暦13)年に建立され、1801(享和元)年に再建されたものです。栄螺堂(さざえどう)様式の仏堂で県の指定文化財となっています。栄螺堂は会津若松の円通三匝堂(えんつうさんそうどう)が有名です。内部が螺旋構造になっている珍しい建築物です。

 そこから南に向かう石段を降りて大師通りを経て我孫子駅に向かいます。そして、取手始発の常磐線快速で帰路につきました。

旅の記録

スタート 柏駅   8:45

ゴール  取手駅  13:20

歩行距離  約20km(柏駅から街道を通って取手駅までは約13km)