ごまめの旅日記

街道等の歩き旅を中心に旅の記録を紹介します。

羽州街道を歩く 番外編4 鶴岡市

令和5年8月2日(水) 晴れ やや雲多し 暑い

 最終日。ありがたいことに今回は4日とも晴れでした。本日は列車の時刻まで、鶴岡市内の散策に充てることにします。港町で商業の町・酒田と城下町・鶴岡では、どのような違いがあるか興味深いです。

 ここでも自転車でと思いましたが、自転車が借りられるのが9:00からで、7:30ごろから行動すれば自転車を待っている時間にある程度回れると判断し、徒歩でいくことにしました。

 

1 鶴岡市について

 はじめに、鶴岡市について記します。
 鶴岡市は人口約11万人で、山形県では山形市に次ぐ人口を有します。面積は東北地方で最も広いそうです。中心部は江戸時代を通しての城下町でした。意外にも「日本のサーフィン発祥地」なのだそうです。冬は、日照時間がとても少ないようです。また、絹織物の生産も盛んのようです。

2 鶴ヶ岡城址

 散策のはじめは鶴ヶ岡城址に向かいます。駅前から西へ行って県道332号線に入り南下、ひときわ大きな建物である庄内病院の脇を通って鶴岡城址の東の入り口に行きます。鶴岡城址の石碑のところから荘内神社の一の鳥居へ。ここが大手門跡です。直進して、荘内神社へ。ここが鶴ヶ岡城の本丸跡です。

 

鶴岡城址入口

荘内神社(本丸跡)


  鶴ヶ岡城は、庄内藩の藩庁が置かれていました。土塁が多用され、石垣は一部にだけ使われています。天守はなく隅櫓が2つありました。

 前身は武藤大宝寺氏の居城の大宝寺城です。1588(天正16)年に上杉氏の手に渡り、関ヶ原の戦い以後、最上氏の支配を受けました。1603年、酒田の亀ヶ崎城に倣って大宝寺城も「鶴ケ岡」城と改名しました。

 その後、最上氏は改易され、譜代の酒井忠勝庄内藩の藩祖となります。忠勝は鶴ヶ岡城の改修を進めると共に城下町の整備を行ないました。

 荘内神社酒井忠勝を祀る神社です。その手前には藤沢周平記念館があります。残念ながら水曜日は定休日ということで入館できませんでした。

 

藤沢周平記念館

 その南側にある洋風建築が大寶館(たいほうかん)です。これは、1915(大正4)年に大正天皇の即位を記念して建てられた洋風建築で、設計は小林昌徳、木造2階建て、入母屋、瓦葺きで、外壁が下見板張りペンキ仕上げとなっています。当初は1階が物産館と図書館になっていて、2階が食堂と会議室になっていましたが、1951(昭和26)年からは市立図書館となり、現在は郷土人物資料展示施設となっています。

内堀と大寶館

 

  この後は、致道博物館の方に行ってみます。

 

3 藤沢周平

 致道博物館に行く前に、私が紹介するまでもありませんが、藤沢周平について述べさせていただきます。藤沢周平東田川郡黄金村大字高坂(現在の鶴岡市高坂)に生まれた時代小説を主とする作家です。

 庄内藩をモデルにした架空の藩である海坂(うなさか)藩を舞台にした小説が多数あります。私は、それほどたくさん読んでいるわけではありませんが、縁に恵まれないと出世がままならない下級武士、たまたま運よく出世すると、若い頃の友人との軋轢が生じる。場合によっては命のやりとりも。そんな人生にもがく主人公が多いようです。そのまま、現代のサラリーマンに通じます。これが人気の秘密だと思います。また、主人公には、生真面目に義を守り通す清廉な人物が多いように思います。きっと鶴岡の風土がこのような藤沢小説を産んでいるのでしょう。

 番外編1でも述べましたが、藤沢は、幕末期に活躍した山形県出身の人物、2人を取り上げています。1人は世に知られている清河八郎で作品は「回天の門」、もう1人は雲井龍雄(雲井は米沢なので、庄内ではないが)で作品は「雲奔る」です。藤沢は、幕末の作品が少なく、明治維新に対する姿勢は明らかではありません。自分の分野ではないと思っていたのではないかと思います。清河八郎については、一般に「策士、裏切り者、傲岸」と評価されているのを覆そうとして、書かれたようです。(当然、地元では、再評価の動きが盛んです。)「雲奔る」については幕末の世の動きについての記述が多いこと、また、薩摩を否定して列藩同盟側に立った人物を取り上げていることで、藤沢自身の明治維新についての見解を明らかにした印象があります。(ごまめのつぶやきです。素人の私が勝手なことを言って申し訳ない。)

 ちなみに、庄内藩は、戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟に属し、本間家の膨大な資金援助や猛将・酒井玄蕃らの活躍により、連戦連勝でした。最終的に「謝罪降伏」となりましたが、ここでも本間家の資金がものを言って、寛大な措置に終わりました。明治に入り、西郷隆盛と親交を深め、西郷は「南洲翁」として尊敬されています。

 

4 致道博物館

 開場時間を待って入場します。ここは、いくつかの施設の集合体です。重要文化財が3棟「旧西田川郡役所」「旧鶴岡警察署」「田麦俣の民家」、そして、国指定名勝の酒井氏庭園、さらに庄内藩主御隠殿赤門が古い建造物です。このほかに美術展覧会場、文化財と民具の収蔵庫があります。

 この地は、鶴ヶ岡城の三の丸にあたり、酒井家の御用屋敷が置かれていました。その屋敷の庭園が「酒井氏庭園」です。

西田川郡役所は1878(明治11)年に鶴岡県が山形県に統合され、鶴岡が西田川郡となって郡役所が置かれたとき、初代県令三島通庸の命により建設された建物です。ルネサンス様式を取り入れた木造洋風建築で、完成後は明治天皇の東北巡幸の行在所となりました。現在は展示施設となっているが入館できません。左右対称の均整が取れた建築物です。

西田川郡役所

 「旧鶴岡警察署庁舎」は、1884(明治17)年11月、初代県令三島通庸の令により鶴岡市馬場町に完成した木造2階建ての擬洋風建築です。1階は署長室と事務室、中2階に留置室、2階には取調室があります。擬洋風ですが根幹は入母屋造りで、屋根の大棟、破風妻飾りなど在来様式も併用されています。

旧鶴岡警察署庁舎

田麦俣の民家」は六十里越街道の中間地点の田麦俣に発達した「兜造り」様式の多層化民家「渋谷家」を移築したものです。多層化は雪深く土地の狭い地域で、居住空間と客人を泊める空間を作るためと考えられます。明治期に入り2階3階は、養蚕のために使われるようになりました。基本は寄棟造ですが、採光と通風のために平部分の屋根の一部を持ち上げて屋根窓を作り(高八方)、妻面を垂直に切り上げて窓をつくりました。妻面を見ると兜を被ったように見えるので「兜造り」といわれます。

田麦俣の民家

 御隠殿(ごいんでんは1863(文久3)年に庄内藩江戸柳原および下谷の御殿を解体し現地に移築したもので、致仕・帰郷した九代藩主酒井忠発が隠居所としました。現在は玄関と奥の座敷(関雎堂)が残っています。そのとき赤門も共に移築されています。内部には庄内竿などの展示があります。庄内竿はまっすぐ長いが継ぎ足しがないのが特徴です。

御隠殿

庄内竿の展示

 収蔵庫には、庄内で使われていた川船や海の船、漁猟具などが展示されています。なかなか、見応えのある展示群です。

 

酒井氏庭園

5 藩校「致道館」

 次は、鶴ヶ岡城の東側に移動します。この辺りが市の中心街です。

 藩校「致道館」に行きます。1805(文化2)年に酒井家九代目・忠徳公が創設した藩校であす。残念ながら休館日で中には入れませんでした。「致道」とは、論語の「君子ハ学ビテ以テソノ道ヲ致ス」からとったものです。

藩校 致道館

 その北側に市役所の建物があります。東側には文化会館である「荘銀タクト鶴岡」があります。2018年にオープン、周辺景観・歴史的建造物との調和、周囲の山々への眺望保全に配慮したデザインとなっているとのことです。城址の周辺は、よく整備され、都会的な雰囲気となっています。

荘銀タクト鶴岡

 市役所の北側にカトリック鶴岡教会があります。1903(明治36)年にフランス人神父の全財産と寄付により、旧庄内藩家老の末松家の屋敷跡に建てられたもので、天主堂は日本における教会堂の建築設計を数多く手掛けたフランス人パピノ神父の設計によるものです。副祭壇には、日本でただ一体の「黒いマリア像」が安置されています。

 

カトリック鶴岡教会

6 旧風間家住宅

 その北側のあるのが旧風間家住宅です。鶴岡の豪商、風間家の邸宅です。

 風間家は979(天元2)年に信濃国水内郡の式内社である風間神社に派遣された諏訪一族が風間姓を名乗ったのが発祥とされています。鶴岡風間家の初代、幸右衛門は1779(安永8)年に鶴岡城下とその周辺を販売市場とし、呉服・太物・古手など呉服関連商品の商いをはじめました。明治19年呉服商を廃業して、金融活動や地主経営に進出します。1917(大正6)年、金貸業を廃業して新たに株式会社風間銀行を設立しましたが、1941(昭和16)年、国の施策により、第六十七銀行・鶴岡銀行・出羽銀行・風間銀行が合併して現在の荘内銀行となりました。

 1896(明治29)年に、七代目幸右衛門が店舗兼住宅として建てたのが『丙申(へいしん)堂』、明治43年に来賓を迎えるために建てたのが別邸『釋迦堂』です。

 丙申堂は、豪壮だが装飾は質素である。大きな特徴は「杉皮葺きの石置屋根」です。杉皮を五枚重ねにして屋根を葺き、平らな石を敷き詰めています。明治の頃はこの地方でよくあった形式の屋根だそうですが、現存するのは珍しいとのことです。

 

丙申堂

杉皮葺石置屋

 釋迦堂は、庭園を備えた平屋建てで、「無量光」の書を掲げ、「無量光苑」とよんでいましたが、後に石仏釋迦像を安置し、「釋迦堂」と呼ばれるようになりました。

釋迦堂

 風間家住宅の南、内川の向こう側には、荘内銀行本店がみえます。

荘内銀行本店



7 長山邸跡(芭蕉滞在地)

 風間家住宅の東側を内川が流れています。大泉橋の少し東に「松尾芭蕉内川乗船地」の碑があります。そこから北東に200mほど行くと長山重行邸跡があります。

長山重行邸跡

 芭蕉曾良は、1689(元禄2)年6月10日(新暦7月26日)まで羽黒山の南谷に滞在し、同日昼すぎ、鶴岡へ出発しました。夕方には同地で藩士、長山五郎右衛門(重行)宅に到着しました。長山邸では3泊し、歌仙を巻くなどしましたが、芭蕉羽黒山で体調を崩し、思うようにできなかったようです。ここで詠んだ句が「めづらしや山を出羽(いでは)の初(はつ)茄子(なすび)」。この辺りの名物である民田茄子の紫色が眼に映えたようです。それで、酒井家庭園にあった芭蕉の句碑は茄子の形をしています。

 その後、二人は13日に大泉橋近くの船着場から川船に乗り、内川〜赤川と下って、酒田湊へ到着しました。

松尾芭蕉内川乗船地

 赤川は、現在では最上川より南で日本海に流れ出ていますが、当時は現在の土門拳記念館の東付近で最上川に合流していました。



8 鶴岡銀座通り・みゆき通り

 大泉橋を南に行き、銀座通り商店街に入ります。アーケードが続いており、鶴岡市の商業の中心と思われます。しかし、ここもシャッターが閉まっています。水曜日が定休日なのかもしれませんが、開いている店がほとんどありません。

銀座通り商店街

 通り沿いに市の有形文化財に指定されている「三井家蔵座敷」があります。鶴岡の三井家は三井財閥とは異なる家のようですが、鶴岡で豪商の1つに名を連ねていました。この蔵屋敷は1869(明治2)年の大火の後に建てられたもので、防火のために土蔵造りになっています。

 昼時なのでどこかで昼食をと思ったが、なかなか開いている店がありません。「まちづくりスタジオ鶴岡Dada」というところの食堂がやっていたので、そこでオムライスを食べました。

 その後、付近を歩いてみましたが、銀座通りと交差する「みゆき通り商店街」も閑散としていました。

みゆき通り商店街 荘内銀行本店前

 地元の方には申し訳ありませんが、酒田の中町より、寂れ感が顕著です。

9 山王町〜サンロード

 大泉橋から北東に伸びるのが山王通りです。ここを行くと日枝神社があります。日枝神社の門前あたりは、新しい店舗が見られ、やや活気があります。日枝神社(下山王)は、ここより南の日枝地区にある日枝神社(上山王)と共に、大宝寺村ができるずっと前からここにあったという神社です。

日枝神社(下山王)

 下山王門前から北へ、鶴岡駅前に向かって伸びるのが「サンロード日吉商店街」です。アーケードが続いていますが、ここもシャッター街となっており、店舗も古く、閑散としています。

サンロード日吉商店街

 駅前に戻ってきました。駅前は再開発されて、モダンな施設が作られています。

 駅からサンロードの方(南)を向いて、左側にはマリカ東館、右側にはマリカ西館があります。東館は駐車場と食文化市場foodeverや観光案内所などが入り、西館には地元の食材などを売る清川屋やホテルなどが入っています。

 しかし、平日のせいか、人影はまばらです。

マリカ東館

マリカ西館

 鶴岡市は、駅前からサンロード、山王町、銀座通りへと続く線が元気になる必要があるようです。条件はよさそうに思いますが、どうなんでしょう。

 

10 鶴岡市をあとに

 駅前に戻り、やや疲れたので、予定より1本前の「いなほ」で、鶴岡を発つことにします。今回の旅もこれまでです。

 鶴岡市の特徴は、なんといっても城下町ということです。周囲には致道博物館、致道館があり、江戸時代の文化を現代に伝えています。また、庄内銀行や風間家など庄内の経済の中心を担ってきたという矜持も感じられました。商店街は、以前は庄内地方の商業の中心地だったことが窺われますが、再開発が必要のようです。

 酒田と鶴岡を対比して見てきました。酒田は商人の町で象徴的なのは「本間家」、鶴岡は武家の町で象徴的なのは「酒井家」だと思います。通常は武家の方が格が上ですが、庄内の場合、この関係は微妙です。

 庄内地方は、独特の産業、経済、文化が豊かに育った地であることがわかり、大変意義深い旅となりました。