「街道歩きの楽しみ」の続編です。
街道歩き旅には、さまざまな出会いがあります。人との出会い、文化との出会い、風景との出会い、思想との出会いなどなど。
今回は、文学との出会いについて述べたいと思います。
それぞれの地域に、その地域に根ざした文学があります。また、地元の人は、郷土出身の文学者を大切にし、顕彰したり、記念館を作ったり、読み合ったり、研究したりしています。そのような地域の取り組みに触れ、私もいくつかの文学作品を知り、読んで学ぶことができました。そのいくつかを紹介したいと思います。
作品をそれほど読んでいるわけではない私が、勝手なことを述べますが、お許しください。
1 松尾芭蕉
街道の旅に松尾芭蕉を外すことはできません。芭蕉は、生涯で何度も旧街道旅し、句と紀行文を残しています。代表的なものは1689(元禄2)年 3月27日から9月6日まで、芭蕉46歳の時の「おくのほそ道」の旅ですが、その他にも、41歳の時に江戸を発って東海道を伊賀上野へ、翌年中山道から甲州街道を通って江戸に戻った「野さらし紀行」の旅、45歳の時に、岐阜から中山道を通って江戸に至る「更科紀行」の旅などがあります。
芭蕉は様々な場所で句を残しているので、現代では、その句を刻んだ句碑が随所に建てられています。私は、初めは興味がなかったのですが、街道を歩くうちにだんだんそのよさに気づくようになりました。
一例を挙げます。東海道の金谷宿と日坂宿の間に中山峠という峠があります。東海道では箱根、鈴鹿と並んで難所の1つに数えられる峠です。ここの特徴は、周りが茶畑で、木が少ないことです。夏場にここを越えようと思ったら、相当、暑い思いをすると思います。(猛暑日に歩くようなことは絶対にやめましょう。)芭蕉はここで、
「命なり わずかの笠の 下涼み」
という句を遺します。道端にわずかにあった小さな松の木陰で一休みして涼をとる芭蕉の姿が眼前に浮かびます。昔の旅人のように炎天下、日陰もないところをトボトボと歩いているとその句が実感として心に響いてきます。
しかも、芭蕉の句には古典からの引用があります。この句は西行の「年たけて また越ゆべしと思いきや 命なりけり 小夜の中山」の歌を下敷きにしていると言われています。何気ない平易な表現の中に、しっかりと歌の伝統が織り込まれているのも、芭蕉の凄いところです。 ちなみに、芭蕉は西行の大ファンのようで、行く先々で、「ここは西行さんがこの歌を読んだところだ。」と感激しています。
私も奥州へ旅立ちました。当然、「おくの細道」の跡を辿ることになります。旅に当たって参考にしたのは長谷川櫂氏の「「奥の細道」を読む」という著書です。氏の解釈に感銘を受けたので、氏の説を検証するような旅となりました。そして氏の著書により「奥の細道」は、単なる紀行文でも歌集でもなく、歌仙の様式を踏まえ、一つのテーマを表現した、緻密に構成された文学作品であることがわかりました。詳しくは、これまでもいくつか述べましたが、また、奥州街道や羽州街道の旅のところで述べたいと思います。
最後に、芭蕉隠密説について考えてみたいと思います。
芭蕉隠密説の根拠は、①伊賀上野の出身である ②1日60km歩く健脚 ③幕府が支援しなければ旅ができない ④仙台藩領では、道に迷ったふりをして、主に金山と思われる場所を視察している、また、仙台藩の拠点港・石巻を詳細に観察している。
私は、芭蕉隠密説には、否定的ですが、曾良隠密説は支持します。曾良は、芭蕉の門人ですが、奥の細道の旅の後、幕府の役人となっています。また、「奥の細道」の旅の道程や宿所、関所の通行手続きの全てを仕切っています。曾良の広いネットワークがなければ旅は不可能でしょう。旅の資金の多くは、門人の出資、また、地方にいる門人のもてなし、歌仙を巻いた際の謝礼などで賄っていたと思いますが、一部は幕府からも出ている可能性があります。曾良は芭蕉のツアーコンダクターをしながら、東北の諸藩、特に仙台藩を視察していたのだと思います。
2 宮沢賢治
奥州街道が通る岩手県花巻市は宮沢賢治の出身地です。今では、大谷翔平、菊池雄星を輩出した「花巻東高校」の方が有名でしょうか。
以前から宮沢賢治には興味があり、家族旅行で宮沢賢治記念館や「風の又三郎」のヒントを得たと考えられる種山高原などを訪れていました。
旧奥州街道を黒沢尻の方から北上川に沿って北上します。成田の集落を出て、国道4号線を渡ると宮沢家の別宅があった桜町に入ります。羅須地人協会跡地には「雨ニモマケズ」の詩碑が建っています。東側の段丘の下には「下の畑」が見えます。その先、花巻の市街地に向かうと賢治の生家跡があり、花巻城址の隣にある花巻小学校の体育館の壁面には賢治のシルエットが描かれています。
改めて賢治について調べると、ひとりで「イーハトーブ」を歩き回ることが多く、天体や岩石・鉱物を観察していたことがわかりました。また、そこで、多くの詩を創っています。
賢治の詩は、残念ながら私には理解不能です。小学校の国語の教材に「やまなし」が取り上げられていましたが、子供の方がよさを理解できるのかもしれません。おそらく、賢治は、大人が忘れ去ってしまったファンタジーの世界を持ち続けていたのではないかと思います。
晩年の「雨ニモマケズ」の思想には仏教、特に法華経の影響が大きいようです。特に注目したいのが、父親との関係です。仏教思想は父親からの影響でしょう。
2023年に映画化された門井慶喜の「銀河鉄道の父」では、なかなか自分の思い通りにならない賢治に愛情を注ぎ込む父親像が描かれています。同じ2023年に放映されたNHKの番組「業の花びら」では、父子の対立が描かれています。父子の対立は、賢治が家業の質屋を嫌い、理解不能の行動や仕事を行なっていることだけでなく、父・政次郎は浄土真宗の篤信家だったのに対し、賢治は法華経に傾倒していくことにもよります。
人は、子供から青年にかけてでは、父親の思いはなかなか理解できないものです。私もそうでした。しかし、自分が父親となり、子育てを修了した今、「父親の眼」でみることができるようになった自分を感じます。
「業の花びら」のプロデューサーである今野勉氏は「宮沢賢治の真実」という著書を書いています。氏は賢治の詩を丹念に読み込み、また、検証して、賢治の人生に大きな影を落としているのは、親友(というか愛人)保阪嘉内への思いと、妹トシが高等女学校時代の教師とのスキャンダルに悩んでいたことに気づかなかったことであること、それから「銀河鉄道の夜」の登場人物「カンパネルラ」は保阪であることなどを明らかにしています。
3 三浦哲郎 〜自らの生活そのものを描いた小説家〜
芥川賞作家・三浦哲郎(みうらてつお)は、八戸市の生まれですが、実家はその後、二戸郡一戸町に移住し、哲郎自身も一戸町で暮らしていました。作品の中には、ここでの暮らしを描いたものが多くあります。
馬淵(まべち)川にかかる橋は、小説「妻の橋」に登場します。橋の袂には、三浦哲郎の文学碑が建っています。一時期暮らしていた、また、小説「忍ぶ川」にも登場する「金田一温泉」には、当時住んでいた住居が現存しているようです。
小説「白夜を旅する人々」には、哲郎の不幸な家族の生い立ちが綴られています。哲雄自身は不幸な生い立ちの割には、健全な一生を送ったように思えます。自分の生を小説にすることで、心の健全性を保っていたのかなとも思えます。
一戸に行ってみると、この人は本当に虚構なく自分の生活を小説にしてきたのだなと感じることができます。
4 藤沢周平
人気作家の藤沢周平ですが、私は、これまで作品に触れたことがなく、鶴岡に行くことを決めてから、代表作の「蝉しぐれ」と「風の果て」を読みました。すぐに魅きつけられました。「蝉しぐれ」はDVDで映画も観ました。
藤沢周平は東田川郡黄金村大字高坂(現在の鶴岡市高坂)に生まれた時代小説を主とする作家です。22歳の時、湯田川中学校の教師となりますが、肺結核のため休職。その後、東京に移住して、業界新聞の記者として働きながら、35歳ごろから、小説を発表し始め、46歳の時に「暗殺の年輪」で直木賞を受賞。翌年から文筆に専念するようになります。
藤沢の時代小説は、自らの運命に正対して、一途に生きる清廉な人物を描いています。若い頃の友人との競争・確執は、組織人なら誰しも、身に覚えがあるのではないかと思います。また、それが庄内の持つ風土と一致しているように思えます。あるいは、勝手に重ねてしまっているのかもしれませんが。
鶴岡市では、鶴ヶ岡城址の中心に藤沢周平記念館を設置して、郷土が生んだ作家を大切にしています。
5 太宰治
太宰は、非常にうまい小説家で、私は高校生の頃から、わりと好んで読んできました。テーマはともかく、ストーリーの展開が巧みで、引き込まれます。分析しているわけではありませんが、スラスラ読めるのは、文章がうまいからだと思います。
太宰治は津軽平野の中心部にある金木(かなぎ)(現在は五所川原市金木町)出身。生家は、地方の名士の家で、経済的にも豊かでした。生家は現在「斜陽館」という名で、公開されています。
青森市や弘前市に行くと、太宰治ゆかりの地が、細かく表示され、地域出身の人気作家を大切にしていることが窺われます。甲州街道が通る甲府市にもゆかりの地があります。
太宰の代表作の中に「津軽」があります。私は、大抵の太宰作品は、一気に読み終えてしまいましたが、「津軽」だけは別で、ストーリーの展開が緩慢で、以前は単なる紀行文でストーリーなどないのかと思っていました。退屈なので途中で読むのをやめたため、結末を知りませんでした。
津軽の旅をひかえて、何十年かぶりに「津軽」を読み始めました。これから行こうと思っている「蟹田」「外ヶ浜」「龍飛崎」などが書かれていたため、今度は、興味を持って読むことができました。そして、「名作」と呼ばれている理由がわかりました。この作品は、一番最後に一気にクライマックスがやってきます。それは、小泊という津軽半島の西海岸の小さな町に、幼い頃、母の代わりとして自分を育ててくれた「たけ」に会いに行く場面です。この場面は泣けました。この小説は、この1点を書きたいがために、だただらと緩い坂を登っていっているのだと思います。やはり太宰は小説が「うまい。」