令和6年1月5日(金)晴れ時々曇り
その1からの続きです。
5 栄地区
横手市街地をじっくり見るため、十文字を通り越して横手市街地近くまでバスで移動することにします。バスは、十文字交差点から羽州街道に入り、醍醐地区を通り越し栄地区に入ります。柳田駅近くの持田バス停で降り、ここから横手市街までは歩くことにします。
バス停の先右手に栄小学校の看板があります。その下に「御本陣跡」という標柱が建っています。秋田藩主佐竹氏が参勤交代の際に小休所として使っていた「持田の茶屋」の跡とのことです。
その先に柳田駅入口と栄神社があります。ちょうど昼どきなので、この先の横手焼きそば四天王の店「藤春食堂」に行ってみましたが、残念ながら休業日のようです。
国道13号線を北上して秋田自動車道のガードをくぐります。その先の美砂古交差点の先の左手の民家の敷地内に「美砂古の清水」があります。2体のお地蔵様が立っており、そこに湧水があるようです。
さらに500mほど行くと「元祖神谷焼きそば屋」の看板があるので、行ってみました。左手に入ると比較的新しい立派な建物の焼きそば屋があります。店内の掲示を見ると、初めは屋台で焼きそば屋を始めたが、次第に評判となり、店を構えるようになったようです。ここが「横手焼きそば」の元祖なのでしょうか。出てきた焼きそばを見ると、紅しょうがではなく、福神漬けが添えてある以外は、うちの方の焼きそばとそれほど違わないように思います。
焼きそばを食べて、旅を再開します。1.5kmほど進むと左手に八王子公園が見えます。その先に大きな交差点があります。安田交差点です。右は北上市へ、左は由利本荘市へと通じています。
交差点の左手前に、一般の民家と思われますが、木造の豪邸があります。直進すると「けやき大通り」となり、市街地へと向かいます。800mほど進むと北上線の踏切があります。この辺りから市街地です。
6 横手宿
さらに300mほど進むと右手に神明社があります。横手神明社は、1716(享保元)年に、当時の横手の富豪が外町の鎮守として創建したものです。つまり、ここから北が外町です。斜向かいには金比羅神社があります。
けやき大通りは、ここで左にカーブしますが、旧街道は直進して、狭い道に入ります。その先で交差する平和街道を中心として一帯は平和町、左の方に見える寺院は九品寺です。その先は鍛冶町に入ります。鍛冶町郵便局の斜向かいには、板塀で囲まれた古風な豪邸があります。
その先も比較的閑散とした商店と住宅が混じる街並みが続きます。左手に増田にあったような切妻、妻入り2階建の商家である、麹、味噌醸造元「こうじ庵」があります。その先は桝形になっていて、羽州街道は、ここを右折し、次の小川歯科の前の交差点を左折して進みます。
この辺りも閑散としていますが、かつての横手宿の中心です。北都銀行がある大町交差点を過ぎると右手に新しい蔵造りの建物と古い洋館があります。明治の頃から旅館を営んでいる平源です。江戸期は染め物屋だったそうです。
その隣にある古風な平家の建物は旅館・平利で、ここは、江戸期から「清翠館平田屋」という宿屋と食事処を営んでいました。現在は割烹のみ営業しています。イザベラバードはこの辺りに宿泊したようです。
向かいには蔵造りの菓子店、明治35年創業の木村屋があります。創業者の山下九助は、現在では一般的になっている裏にアルミ箔を貼り付けた紙で羊羹を包むという包装法を発明したことで知られています。
街道は、この先で横手川に突つきます。かつては、この先に蛇の崎橋があったと思われますが、現在は下流に移動し、けやき大通りの橋となっています。本日の街道の旅は、ここまでとします。
7 横手市街地
この後は、横手の市街地を探索したいと思います。
その前に、横手市について記しておきます。横手市は人口約8万人。横手盆地のほぼ中央に位置し、秋田県第2の人口を持つ、県南地域の中心都市です。伝統行事である「かまくら」が有名です。近年は「横手焼きそば」が名をなしつつあります。農業や酒造業が盛んで、自動車関連の工場も多いです。戦国期には、小野寺氏、江戸期は佐竹氏の家臣の戸沢家の支配下にありました。本市出身者の中には、芥川賞受賞作家の石川達三がいます。
羽州街道の西側の道を南に戻って行きます。洋館風の古い建物の斎太薬局本店は取り壊されたようです。その南には「佐藤儀右衛門商店」という古風な商家が残っています。
東に転じ、中の橋を渡って内町に入ります。内町はかつての武家町です。横手城を目指して、市立横手病院の前を通過します。右手には昨雪軒という瀟洒な建物がありますが、建築家・白井晟一が横手更生病院の院長の自宅として建設したものとのことです。
病院の駐車場の先を右に入ると横手城がある山に突き当たり、左右にカーブしながら階段を登っていくと横手城の大手門跡に出ます。左手に模擬天守が見えます。しかし、こちらは二の丸で、模擬天守は冬季休館中です。二の丸跡からは、横手市街地が見下ろせます。また、ここは、かまくら祭りの時の会場にもなるようです。
大手門跡の右手の山が本丸跡です。登ってみると秋田神社があります。
横手城の築城時期は不明ですが、戦国期は小野寺氏の居城でした。関ヶ原の戦いの後、一時、最上氏のものになりますが、秋田へ佐竹氏が移封になると、佐竹氏の家臣の戸村氏の居城となります。その後、佐竹氏の働きかけで廃城を免れ、明治まで戸村氏の居城となります。本田正純は、宇都宮城釣り天井事件のために排斥され、戸村氏の預かりとなり、死去するまで横手城の三の丸に居住しました。戊辰戦争で久保田藩は新政府側についたため、仙台藩と庄内藩に攻撃されて横手城は焼失。戊辰戦争後、死者を弔うため、廃材を用いて秋田神社が造られたとのことです。
横手城址から下りて、横手病院の前を南下し、裁判所の方へ登っていった先に、旧日新館という洋館があります。これは、1902(明治35)年に、旧制横手中学校(現 横手高校)の英語教師として赴任してきたアメリカ人チャールス・C・チャンプリンの住居として建てられたものです。建物は洋館には珍しく、素木造りの住宅です。その後、歴代の英語教師がここに居住し、中でもマルチン・M・スマイザ―は、退官後もここに住み、伝道生活を続け、地元との縁を深めました。
先に進むと、釣り天井事件後、戸沢氏預かりとなった本田正純と嫡子の正勝の墓所があります。
本田正純は、家康の参謀として知られる本田正信の嫡男。正信亡き後も家康を支えましたが、家康亡き後は秀忠側近に疎まれて失脚したものと思われます。戦国の世が終わり、世の中が安定してくると、戦国を戦った勇者は、かえって幕府の邪魔になり、切り捨てられて行きました。正純は、嫡男・正勝とともに、佐竹義宣に預けられ、横手城の戸沢氏のもと幽閉生活を送ります。先に正勝が健康を害して死去、七年後に正純も世を去っています。
山を下って内町に入ります。横手川沿いに、旧制横手中学校や横手高等女学院で教鞭をとっていた石坂洋次郎の住居跡があります。内町をめぐると板塀に囲まれた武家屋敷風の建物がいくつか残っています。
この後は、愛宕大橋で横手川を渡り、阿桜通りを西に行って市街地に戻ります。雨が降り出したので、リュックにカバーをかけ、傘を取り出しました。まだ時間があるので、かまくら館に行ってみることにします。
市役所の隣に「横手市ふれあいセンターかまくら館」があります。1階は、低温室の中にかまくらが1つ展示されていて、中に入ることができます。その隣には、映像でかまくらまつりの様子を映し出す映像室があります。
かまくら館を出て、「ななかまど通り」を通って横手駅へ向かうころには、雨が本降りとなっていました。
横手駅は2011年に全面改修を受けて、新しい橋上駅になっています。二階の天井に青と黄色のイルミネーションが飾られています。奥羽本線と北上線の他に1971年までは、羽後交通横荘線(おうしょうせん)が乗り入れていました。横荘線は、横手から浅舞、沼館を通り由利本荘市の老方まで通じていた鉄道です。かつては現在の鳥海山ろく線と繋げて、日本海まで伸びる計画がありました。
駅の東口南側は、今夜宿泊するプラザアネックス横手も含めて、温泉施設がいくつかあります。東口の北側には、かつての平鹿総合病院とジャスコ横手の跡地に「よこてイースト」という複合施設が造られており、空洞化していた駅前地区の再開発が進められています。
この後、ホテルに入館します。プラザアネックスは大浴場付き。ゆったりと温泉に浸かって、明日に備えます。
これで、羽州街道 11 湯沢宿〜横手宿が終わりです。
旅の記録
ゴール 横手市蛇の崎橋 14:40
歩いた道のり及び時間 湯沢〜十文字 約7km 約100分
持田〜蛇の崎橋 約5km 約100分