ごまめの旅日記

街道等の歩き旅を中心に旅の記録を紹介します。

羽州街道を歩く 12  横手宿〜大曲宿 その1 (金沢宿・六郷宿)

令和6年1月6日(土)曇りのち雨

 3日目。本日は、後三年の役の古戦場・金沢を通り、湧水の里・六郷まで14km程度歩き、六郷からは、バスで大曲に入るという計画です。冬型が強まりつつあり、午後には雨かみぞれになるという予報です。リュックにはカバーをかけ、傘を用意してホテルを出発。六郷発が15:52なので、十分余裕があります。

  その1では、金沢宿と六郷宿について記します。

 

1 横手市 本町・幸町

 横手駅前から「ゆりのき通り」を通って市役所まで行きます。商店街は湯沢よりは活気があるようです。大町から羽州街道に入って、蛇の崎橋を渡ります。右手の山上に横手城が見えます。橋のすぐ下流の河原も「かまくら祭り」の会場となるようです。

 街道は信号の1つ先を右に入ります。この辺りは本町です。この先は枡形となっていて、突き当たりの高橋畳店の前を左折して幸町交差点を直進します。このまま直進すると朝倉街道で、横手川を渡っていきますが、羽州街道は、次の交差点を右折して北へ向かいます。県道沿いには石坂洋次郎文学記念館があります。

旧蛇の崎橋の記念碑と現在の蛇の崎橋

横手宿北側の桝形 朝倉街道は直進 羽州街道は右折

 その先、新聞販売店のところも枡形となっていて、右折してすぐ左折します。緩い坂を登っていくと、左手に大鳥神社の方へ入る道があります。この先の左手は大鳥公園の野球場となっています。右手には横手市公文書館があります。

大鳥神社入口

 

 山林の中に住宅が建っているような地域を進むと、右手に芝生広場があります。その突端に榎本武揚があり、榎本が江戸に護送される途中に、鳥海山を見て詠んだ歌が刻まれています。その先は、左手も芝生の公園となります。七日市公園です。

 公園が終わった先の電波塔の手前に、斜め右に入る草道がありますが、これが羽州街道です。街道は、この先山林や沼がある場所を通過して現在の国道13号線に出るルートをとっていたようです。

羽州街道と思われる道

 しかし、道が失われているので、このまま道なりに進んで、山林の中を左にカーブしながら国道13号線へと下っていき、杉沢地区に入ります。

 

2 杉沢

 国道に合流するとすぐ杉沢川を渡ります。少し先の野中入口という信号の先右手に一里塚の石碑があります。街道は杉沢川を渡って、この辺りで現在の国道のルートに至ったのだろうと思います。

 国道に沿って、住宅や会社の倉庫などが点在する丘陵地を抜けると、安本入口交差点で、県道272号が合流してきます。その先の「焼肉じゃんじゃん」の先の手押し信号のある交差点(角に小杉商店がある)を左折していくと後三年の役の時に源義家が陣を置いたという「御所野跡」という小さな白杭があります。右折していくと金沢柵落城後、清原武衡が潜んでいたという蛭藻沼があります。

 

 

3 金沢(かねさわ)宿

 先に進むと、金沢地区に入ります。左手の金沢中野駐在所から200mほど進んだ右手に鳥居があり、「物見山(斥候山)入口」と書かれた棒杭があります。後三年の役の時に見張り(斥候)を配置した場所のようです。

 左手奥には「平安風わたる公園」があります。後三年合戦の際の古戦場である西沼を中心に平成3年に作られた歴史公園です。源義家が金沢の柵に向かう途中、この沼を通った際に、飛んでいた雁が突然列を乱したことから、敵の伏兵がいることを察知し、難を逃れたといわれる場所です。

 さらに進むと左手に洋館のような建物があります。廃校になった金沢小学校の跡地を利用した公民館であります金沢孔城館です。

 その先、街道は国道から右に分かれ、金沢本町の街中に入っていきます。街中に入らずに国道を行くと右手に「後三年合戦金沢資料館」があります。後三年合戦について解説する映像や資料の展示を行っています。映像を見ながら、汗を乾かします。

国道から右に分かれる 前方左の緑色の屋根の建物が「後三年合戦金沢資料館」

 街中へ向かうと右手に金沢公園があり、公園の中の道を登っていくと後三年合戦の激戦地・金沢柵の跡があります。

 

金沢公園入口


 ここで後三年合戦(後三年の役について記します。

 朝廷は、蝦夷地に支配権を確立しようとして、「征夷大将軍」を奥州に送り、「柵」と呼ばれる砦を築いて、徐々に支配地を広げていきました。北上川流域では、朝廷は胆沢城などを置いていたましたが、実質は安倍氏が支配していました。

 1051(永承6)年から1062(康平5)年にかけて争われた前九年合戦で、安倍氏が討伐され、清原氏の実質的な支配が確立しました。しかし、その後、清原氏内部の主導権争いが起こり、真衡と家衡・清衡が対立します。そこに、陸奥守として入った源義家が絡み、対立が深まります。その後、真衡は病死し、以後家衡と清衡の対立が始まり、義家が調停に入るが効果がなく、家衡対清衡・義家の対立となります。清衡・義家軍は沼柵(現在の横手市沼館)に籠る家衡を攻めますが、家衡はこれを退けます。その後、家衡は、武衡とともに金沢柵に移り、1087(寛治元)年に、これを清衡・義家軍が攻めます。籠城戦の末、家衡は敗れ、武衡・家衡は討ち取られます。

 後三年合戦の結果、清原氏の旧領内で清衡の支配権が確立。清衡は姓を実父・経清の姓である藤原に改め、奥州藤原氏の基礎を固めます。

 金沢柵には、兵糧に困った義家軍の馬の上で大豆が発酵して納豆ができたという「納豆発祥の地」の伝説があります。

 金沢公園の先、集落の中を進むと右手に金沢八幡宮の一の鳥居があります。立派な鳥居です。金沢八幡宮は、後三年の役の後、義家が清衡に命じて、金沢柵の跡に石清水八幡宮勧進させたのが始まりとされます。

金沢八幡宮一の鳥居

 厨川を渡ると、右手に桂徳寺があります。その先は、金沢本町(もとまち)です。金沢では、戦国期に金沢城が成立していたようです。本町は城下町にあたるのかしれません。金沢本町バス停の右手には、立派な門を持つ民家があります。町の西寄りには明治天皇御小休所屋敷が残っているのですが、見落としてしまいました。

 金沢本町の先は美郷(みさと)町になります。街道は金沢の街を抜け、少し下りながら田んぼの中に入っていきます。道なりに緩く左にカーブして国道の方に向かい、国道と合流します。ここからしばらくは、田んぼの中をまっすぐ進む国道の側を歩くことになります。

金沢の町を抜け、美郷町へ向かう

1kmほど行くと右手に「ヤマダフーズ」の工場があり、その先のガゾリンスタンドに先に「野荒町一里塚跡」の棒杭が立っています。


4 六郷宿

 さらに1kmほど行くと、右手にファミリーロッジ旅籠屋があります。羽州街道は、ここで国道と離れて右へ分かれ、六郷の町の中に入って行きます。六郷宿は、湧水の里として知られています。

 700mほど行くと、左手に熊野神社があります。その先の交差点を左折すると、この通りが、六郷宿の目貫通りとなります。次のガソリンスタンがある交差点の右前には「羽州街道ど真ん中」の看板があります。

羽州街道ど真ん中の標柱


 この交差点を右折して行くと、お土産物を売っている「名水市場湧太郎」があります。その東側は寺町が北へ伸びています。その北側にある北都銀行の向かいには、切妻の妻入りに和小屋組が見える大きな住宅があります。

名水市場湧太郎

 名水市場から西へ行くといくつかの湧水地があります。それから、802(延暦21)年に坂上田村麻呂が創建したと伝わる秋田諏訪宮があります。明治天皇行幸の際には小休所になりました。小正月に行われる「六郷カマクラ行事」(竹打ち)が無形文化財に指定されています。

 

湧水池の1つ 久米清水

秋田諏訪宮

 街道に戻って、行政センターの建物がある上町から街道を西へ進みます。右手、郵便局の手前に伝馬役所趾の表示がある。その先、右手にはJAの大きな建物があります。その先、左手の大きな松の木が一本生えている住宅の前に本陣跡の表示があります。その先左手には、明治天皇の御膳水にもなったニテコ清水があります。この脇の名水庵で昼食をとります。ここは裏に工場があり、「ニテコサイダー」を作っています。

本陣跡

ニテコ清水

 昼食後、そのまま街道を進み町外れの側清水まで行きます。ここでバスを待ってもよかったのですが、まだ時間があり、雨も本降りとなって寒かったので、街道を引き返し、屋根のある待合所がある大町のバス停で、バスを待つことにしました。

 


 予定より早く、13:30のバスで大曲へと向かいます。

その2へ続きます。