ごまめの旅日記

街道等の歩き旅を中心に旅の記録を紹介します。

羽州街道を歩く 11  湯沢宿〜横手宿 その1 (増田)

令和6年1月5日(金)晴れ時々曇り

 2日目。ホテルの朝食が7:00からだったので、支度を済ませた上で、大急ぎで朝食を食べ、7:30にホテルを出ます。

 本日の予定は、十文字駅まで約8kmを歩き、街道を外れて、十文字駅前10:14発のバスで蔵や古い街並みが残っている増田地区を訪問します。そしてバスで街道に戻り、横手市街地を見学するというものです。

 横手市街地見学に時間を取るために、十文字駅から横手市の持田地区まで約7kmをバスで移動することにします。

 路面に雪がなく、天気もまずまずです。

 

1 前森・杉沢・成沢

 サンロードから柳町に出て北進します。サンロードの一本北側の大通りはジークブルガー通りと名付けられており、提携都市のドイツのウェストファリア州ジークブルク市にちなんでドイツ風の建物が並んでいます。

 

ジークブルガー通り

 前森町郵便局より先は、前森地区です。その先の白子川に架かる前森橋には、酒造りの工程を示す図が飾られています。渡り終えたところの右手には秋田銘醸のモニュメントが建っています。秋田銘醸は、通常の酒蔵と違い、大正期に秋田県清酒の販路拡大を目的に地元の蔵元や財界人の出資によって設立された会社です。

 

前森橋の秋田銘醸のモニュメント

 先へ進むと右手に、国の登録建造物となっている重厚な両関酒造の本館の建物があります。全体は豪壮ですが妻部分の格子がつけられた窓やその上の和小屋の梁の重なりなど繊細な美しさも備えています。

 両関酒造は1874(明治7)年に7代目伊藤仁右衛門が創業した酒蔵で、現在では焼酎やワインも造っています。

 本館の建造は1923(大正12)年。大屋根の妻入部分が事務所、接続する平入部分が住宅部分となります。1号から4号の酒蔵は、八代伊藤仁右衛門(いとうにえもん)の代の1892(明治25)年から1916(大正5)年にかけて建てられたものです。土蔵造、屋根・壁ともに漆喰仕上げで、大屋根で覆われており、現在は、すべて貯蔵庫として使用されています。これらの土蔵の屋根構造はいずれも和小屋が採用されています。

 

両関酒造本館

 県道を北へ進むと右手に前森公園があります。その先で街道は国道13号線と合流します。

 

 国道の歩道を行き、秋田三菱自動車販売湯沢店のところで姉倉沢川を渡ります。この川の周辺が杉沢地区です。道路の左手奥を雄物川が流れており、そこまでは広大な水田が広がる地域です。

 その先左手のネッツトヨタの向かいは、堤公園が広がっています。先へ進むと成沢神社入口の石柱があります。

 

2 岩崎宿

 下湯沢駅入口を過ぎて200mほど行くと、奥羽本線を跨ぐために道路は上り坂になりますが、旧街道のルートは坂を登らずに左にそれていきます。しかし、ここを行くと線路が渡れないので、跨線橋を上り、線路を渡ったところの橋上の降り口から下へ降りて羽州街道に戻ります。線路を渡る手前右手に鹿島様があるはずですが、見落としてしまいました。

 線路を越えた先は岩崎地区に入っています。静かな住宅街で、中には板塀を巡らせた敷地の広い住居も点在します。左手に味噌・醤油醸造元・石孫本店があります。南側の古風な住宅は、この家のものでしょうか。

 

石孫本店

 まっすぐ進むと八幡神社の入口に突き当たります。岩崎宿は、交通の要衝であることから、雄勝八郷を束ねる久保田藩が、1671(寛文11)年に皆瀬川に御船奉行と給人を置く藩直轄の奉行所を設置しましした。

 

八幡神社

 1868(慶應4・明治元)年に久保田藩支藩岩崎藩が置かれ、陣屋(千年公園)が築かれました。右手奥にある「岩崎こども園」から千年公園のあたりが陣屋跡です。八幡神社の裏手に鹿島様があるはずですが見つけられませんでした。下に降りずに本殿の脇を裏に行けばよかったようです。

 街道に戻ると二股の角にヤマモ味噌醤油醸造があります。レストランも経営しているようです。その手前には、秋田銘醸の第2工場があるはずですが、操業しているのかわかりません。

 

ヤマモ味噌醤油醸造

 ヤマモの向かいには、古民家を活かした滞在型の宿泊施設「草木ももとせ」があります。このようなところでのんびりするのもよいかもしれません。岩崎宿は目立たないが、活気がある地域のようです。

 

草木ももとせ

 


3 十文字

 直進して皆瀬川を渡ります。かつては船による渡しでした。橋を渡って、土手の上を左へ行くと、古内の渡し場の石碑が立っています。石碑の前を通って右へ土手を下り、直進して元の道に戻ります。

 さらに進むと郊外型量販店の建物が見えてきます。量販店の間に国道342号線との交差点があります。右折すると岩手県の水沢、左折すると由利本荘へ繋がっています。現代の十文字です。その先に進むと昭和の街並みになり、かつての十文字があります。

 十文字は、羽州街道と、奥羽山脈を越えて水沢へ向かう子安街道、交通の要衝・浅舞(あさまい)に通じる十文字街道との結節点です。右手には古風な丹尾旅館があります。その前に十文字町の道路元標があります。


 子安街道と駅へ向かう道との間には「猩々(しょうじょう)の碑」の記念碑が建っています。ここにはかつて「猩々の碑」という道標がありました。十文字はその昔松林を主とした野原で、人々は道に迷い、これが狐か狸のしわざとされました。そのため、増田の通覚寺14世天瑞師が「猩々の左は湯沢 右よこて うしろはます田 まえはあさ舞」という言葉を猩々の酒がめに刻み、方角と地名が分かる道標としたのだそうです。現在、道標は十字館歴史資料展示室に展示されています。

猩々の碑

 羽州街道はさらに北へ進みますが、ここで増田へ向かうために、十文字駅の方へ向かいます。途中、右手に十文字神社があります。境内にはケヤキ、銀杏、柳などの古木が残っています。

 十文字駅は、小ぶりながら活気があります。待合室の入り口は増田の内蔵を模したものになっています。増田方面へ行く旅行者が多いのかもしれません。タクシーが数台並んでいます。駅の右手に「猩々の碑」のレプリカが建っています。

 

十文字駅

 ここまで、結構急いだので、バスの時刻まで少し時間があります。あたりをうろついてから、10:14発のバスで「蔵の町」増田に向かいます。

 

4 蔵の町 増田

 バスは奥羽本線の線路を渡り、子安街道に入ります。増田高校の前を通り、15分ほどで増田蔵の駅バス停に到着しました。しばらく伝統的建造物群保存地区である「増田の町並み」を見学することにします。

 はじめに町並みを見て回ります。伝統的な町屋が軒を連ねています。

 増田地区は、1895(明治28)年に増田町となりましたが、2005(平成17)年に横手市と合併し、横手市の一部となりました。子安街道と手倉街道が交わる交通の要衝であり、17世紀に町割りが整えられ、在郷町として、この地域の商業と流通の中心となりました。

 現在も、子安街道に沿って、当時の町割りのまま、当時の家屋が残っています。この地域の家屋の特徴は、主家が通りに面しており、その奥に内蔵と呼ばれる鞘付き土蔵があることです。鞘と呼ばれる主家と一続きの大屋根が蔵を覆っています。これは、豪雪に対応したものです。内蔵は蔵座敷となっており、一家のプライベートな空間となっています。収蔵庫ではありません。蔵の裏には庭があり、裏通りに至っています。敷地の長さは100mほどになります。

 主家は切妻、妻入り、二階建てで、螻羽(けらば・切妻の前面に見える軒の斜めの部分のこと)が深いのが特徴です。また、軒の下は梁を数段重ねた和小屋造りになっています。バス停の前の木造三階建・石田理吉家は魅力的ですが、靴を脱がなくては、入れないだろうな。町並みの中程にある北都銀行増田支店は、北都銀行の源流・増田銀行が創業した場所です。

 

石田理吉家

旧増田銀行創業地

街並み 真ん中が山吉肥料店

 街並みの南端の「増田の町並み案内所・ほたる」に行って、散策マップをいただきます。

 どこでもよかったのですが、山吉肥料店に見学に入ります。ご主人が丁寧に案内してくれました。主家の南側に「とおり」と呼ばれる土間が続いていて、通りに面したところから裏に向かって店の部分、住居の部分、台所と繋がっています。その裏に内蔵があります。ここの内蔵は昭和になってから造られたもので、この辺りでは最も新しいとのことです。蔵の壁は黒漆喰で丁寧に塗られており、この辺りの蔵の特徴のようです。また、扉は通常は開けられていて、漆塗りの木枠が付けられています。また、木枠は蔵の全体の下部に付けられています。これもこのあたりの蔵の特徴と思われます。

 

「とおり」の部分

蔵座敷の入口部分

 通りに面した部分が「お店」の空間で、その後ろの部分に台所があり、その後ろに内蔵がある作りで、内蔵の中の蔵座敷が居間となっていたようである。冬は、蔵座敷に入ってしまえば、暖かく過ごせたのだろう。

 ご主人の説明が丁寧だったので、他の蔵を見る時間がなくなってしまいました。増田出身の漫画家・矢口高雄を記念した増田まんが美術館にも行きたかったのですが残念。増田では、町並みのいたる所に「釣りキチ三平」が登場しています。私は子どもの頃は、「釣りキチ三平」は、あまり好きな漫画ではありませんでした。釣りに興味がなかったからだと思います。

 

釣りキチ三平を使った案内表示

masuda-matta.com

 このあと11:34発のバスで横手市街へと向かいます。

 

その1はここまでとします。