3日目は、はじめに津軽鉄道に乗って、芦野公園まで行き、その後は、奥羽本線で大館まで移動するという計画です。
芦野公園は、2022年にレンタカーで立ち寄りましたが、今回は、津軽鉄道に乗ることが目的です。時間があるので、芦野公園を一周する予定です。
1 津軽鉄道
本日は雨になる予報ですが、朝のうちはまだ晴れ間があり、ホテルからは岩木山が山頂まで見えていました。
ホテルを出て津軽五所川原駅に行き、8:10発の津軽鉄道津軽中里行き普通列車に乗ります。「走れメロス」の看板を掲げたオレンジ色のディーゼル車1両編成です。
はじめに津軽鉄道について述べます。
1927年に川部駅〜五所川原駅間の鉄道路線を運営していた陸奥鉄道が国に買収されると株主たちが、その資金で五所川原〜中里間の鉄道を計画し、設立したのが「津軽鉄道」会社です。そして、1930年に五所川原〜金木間が、翌1931年に全線が開通し、津軽鉄道線が開業しました。会社は1934年から1955年まではバス事業も行っていました。
通常はディーゼル気動車が走りますが、冬季にはダルマストーブを設置した客車が走り、人気を博しています。
「走れメロス号」の乗客の多くは高校生です。その中に、私と同様の高齢者の旅行客が混じります。
五所川原駅を出発し、街を抜け平野を走ります。2つ先に駅が五農高前駅。ローカル線らしい風景と駅舎です。高校生はここで下車し、車内は一気に空きます。その後も平野を行きますが、線路脇は防雪林があるため、林の中を走る感じです。
天気は、残念ながら小雨が降り始めました。
30分ほどで金木駅に到着。観光客のほとんどがここで下車します。旧金木町には、太宰治の生家があり、現在は「斜陽館」という観光施設になっています。私は、2022年にここを訪れているので、今回はパス。次の芦野公園駅に向かいます。
2 芦野公園
芦野公園駅は、芦野公園の南端の林の中にあります。現行の駅舎の隣に、木造で赤い屋根の旧駅舎の建物があります。人気があるのはこちらで、現在は「駅舎」という名のカフェとなっています。残念ながら本日は定休日です。
駅の西側の踏切を渡って公園に入りました。手前には、動物園があります。林の中に飼育舎があり、ツキノワグマが2頭いる他は、ウサギなどの小動物が少し飼われています。
動物園を抜けて湖上ステージまで行き、芦野湖に沿って北へ進み、太宰治の文学碑と立像を見ました。その先にある吊り橋を渡って湖の対岸へ。渇水期のようで、湖の水は少なく、そこが見えている部分もありました。雨が止み、晴れ間も出てきました。
吊り橋の先は、オートキャンプ場の方へ行く水面スレスレに造られた浮き橋があるのですが、立ち入り禁止となっていました。
吊り橋を戻って津軽三味線発祥の地の碑から、桜並木がある築堤を進み、駐車場がある公園の西門へ出ました。少し、街並みを見ようと思いましたが、キリスト教会の建物以外は、特に目ぼしいものはありませんでした。
踏切を渡って、線路の南側の公園に行ってみました。ここは芝生広場になっていて、グランドゴルフができるようです。
南に行くと相撲場、金木招魂堂と続き、森林鉄道の機関車の展示があります。東には、金木小学校の運動場があります。
まだ、時間があるので、北へ行って、駅の東側の踏切を渡って、湖の方へ行き、「ださい橋」を渡ると一般の民家のようなものがありました。
3 五所川原へ戻る
この後は駅に戻り、10:00発の津軽五所川原駅行きの普通列車で五所川原に戻ります。残念ながら、金木駅からは、団体の旅行客が乗り込んできて騒がしくなり、ローカル線をのんびりという雰囲気ではなくなりました。
津軽五所川原駅のホームに着くと、ハッピを着た数人の人と、カメラなどが並んでいました。これから、「駅舎十二景列車」の出発式を行うとのことでした。
4 五所川原から弘前へ
津軽五所川原駅を出て、JRの五所川原駅に入り、11:06発の五能線弘前行きの普通列車に乗り換えます。
五能線は川部駅までですが、列車は奥羽本線に入り、弘前駅まで行きます。しかし、川部駅からは、スイッチバックとなります。
天気が再び怪しくなってきました。
弘前駅からは、「特急つがる」に乗ることもできましたが、急ぐ旅ではないので、13:27発の奥羽本線秋田行き普通列車に乗ります。1時間ほど時間があるので、下車して昼食をとることにします。
改札を出た先にある「津軽ラウンジ」のアップルパイが美味しそうだったので、これを食べることにしました。その後も少し時間があったので、2022年にも訪れた駅前のホテルルートイン弘前の脇から入る「えきどてプロムナード」に行ってみました。しかし、雨が本降りとなったので、それほど遠くまで行かずに引き返してきました。
5 奥羽本線 弘前駅〜大館駅
弘前駅から奥羽本線のピンクのラインが入ったステンレス車で、南へ向かいます。雨は本降りとなっています。
弘南鉄道の弘南線と別れてしばらく行くと、右手から弘前中央駅を発した弘南鉄道の大鰐線が迫ってきて高架で奥羽本線を越えます。
ここから大鰐線と奥羽本線は平川を挟んで進み、大鰐線は大鰐駅が終着です。隣接する奥羽本線の駅は「大鰐温泉駅」という名です。競合しているように見える奥羽本線と大鰐線ですが、大鰐線の方が駅の数は圧倒的に多く、本数も大鰐線の方が多いです。大鰐線の方は地元民の足という感じなのでしょうか。
津軽平野もここまでで、ここから山中に入ります。そして碇ヶ関から先は、県境の矢立峠(やたてとうげ)となります。
矢立峠は、東の奥羽山脈と西の白神山地の間を抜ける峠で、秋田平野から津軽平野に抜けるにはここを通らざるを得ないところです。1586年に弘前藩が道を造ったとされます。当時から碇ヶ関に番所が置かれ、通行を厳しく取りしまったそうです。明治に入ると勾配を緩やかにした明治新道が造られたとのことです。イザベラ・バードが越えたのはこちらのようです。かつて一帯は秋田杉の美林となっており、バードが絶賛したとのことです。
奥羽本線は1899年に峠を貫通しましたが、奥羽本線最大の難所だったようで、蒸気機関車の時代には三重連が見られたようです。現在は、津軽湯の沢駅から陣場駅まで、長大な矢立トンネルに入り、峠を抜けています。かつては、現在の国道7号線に沿ったルートをとっており、現在も旧線の遺構が残っているようです。また、陣場駅から南は、上り線と下り線が分かれ、下り線は下内川の対岸の山中を松原トンネルで抜けています。いつの日か、ここを歩いて越えたいと思います。
参考までに→
6 大館駅前
白沢駅からは大館市街地がある盆地に入ります。次第に周囲に家屋が見えるようになり、大館駅に到着します。
大館駅は、現在は奥羽本線から花輪線が分かれるターミナル駅です。かつては、小坂に至る貨物線の小坂鉄道や花岡鉱山は向かう花岡線も乗り入れていました。現在の駅舎は去年完成したもので、待合室は、テーブルと椅子が並び、ちょっとした集会スペースとなっている交流センターがあります。(この記事を執筆している時点(2024年10月中旬)のGoogleマップでは、新しい駅舎と古い駅舎の情報が交錯していて不思議な感じです。)
大館市は、関ヶ原の戦い以降は、大館城の城下町として栄えましたが、戊辰戦争の時に激しい戦闘が行われ、大方は消失したとのことです。
現在の人口は約6万4千人ですが、かつては、鉱業の街として栄え、1980年代までは、秋田県にでは秋田市に次ぐ人口を有していたようです。また、鉱物を運搬するために、早くから鉄道網が発達していた「鉄道の街」でもあったようです。
さらに大館市は、渋谷駅で有名な「忠犬ハチ公」の故郷としても知られています。大館駅の駅舎の前には「秋田犬群像」があります。その中の一体は、若き日のハチの姿だそうです。
ハチは1923年に旧二井田(にいだ)村に生まれ、東京帝国大学教授であった上野英三郎の求めにより、1924年1月14日にここ大館駅から列車で東京に向かったとのことです。
(追伸:11月1日のNHK「チコちゃんに叱られる」で、なぜ「ハチ」ではなく「ハチ公」と呼ばれるのか、を問題としていました。ハチの記事を書いた新聞記者が、ハチの忠誠心に感動するあまり「ハチ」と呼び捨てにできなかったからだそうです。)
駅から少し南に行くと2019年にオープンした「秋田犬の里」があります。秋田犬との触れ合いができる観光施設です。建物は、ハチが通っていた頃の渋谷駅を模しています。また、玄関前には、大館駅前から移された忠犬ハチ公の像が建てられています。(このハチ公像は、耳が垂れていません。)
入館無料なので(うれしい)、入館してみました。ふれあいのスペースには、決まった時間に秋田犬が現れ、飼育員と触れ合っている様子を見ることができます。
「秋田犬の里」は、小坂鉄道の駅の跡地に立っているようです。建物の裏には、旧小坂鉄道の線路が残されていて、手漕ぎのトロッコを走らせることができるようになっているようです。また、かつて渋谷駅を発着していた東急5000系電車通称「青ガエル」が展示されています。
また、駅前には、このほかに「鶏めし」が人気の「花膳」の店があります。
7 大館市街地
今夜の宿泊地は、大館駅から2kmほど南へ行った大町にあるので、徒歩で大町方面に向かいます。幸い、雨は小降りになってきました。
駅から南に向かうには、西大橋を渡り東大館駅近くに至るルートと県道2号線を通るルートの二本の大通りがありますが、西大橋を通って東大館駅前に行ってみることにしました。メインルートは県道2号線の方のようです。
もともと人口が多く、市街地が広かったようですが、駅近くの御成町は閑散としています。天気のせいもあるかもしれません。
駅から市の中心まで距離があります。駅を設置する時に、もう少し南の、せめて、長木川のすぐ北あたりにできなかったのでしょうか。
長木川を西大橋で渡ります。ここから南は河岸段丘になっており、大館市の中心的な市街地は、この段丘の上にあります。段丘の縁に大館市立総合病院の立派な建物があり、その南が市街地となっています。「きりたんぽ専門店元祖むらさき」の紫色の建物を過ぎ、さらに南へ行くと右手に東大館駅があります。市街地に近いのは、大館駅ではなく東大館駅のようです。しかし、東大館駅は、花輪線なので、本数が少なく、中心駅とはなりにくいでしょう。
駅前から東に向かって商店街があります。東に向かうとアネックスロイヤルホテルの前を通り、県道2号線との交差点に至ります。県道に沿って北の方向にはアーケード街があります。ここが市の中心に間違いないでしょう。東大館駅側が常盤木町で、交差点の東は新町、北は大町です。大町のアーケード街は「ハチ公通り」という名が掲げられています。昭和の香りが強いですが、大きな商店街です。ちなみに、東大館駅前から辿ってきた道は、旧羽州街道です。街道はここで左折してアーケード通りに入ります。
私もここからは街道に沿ってアーケード街を進みます。建物の痛みが激しいのは、雪国だからでしょう。それを差し引いても閉まっている店が多く、寂れ感があります。鉱山で栄えた街も閉山後はめぼしい産業が育たず、苦戦していると聞きます。買い物客は、市の北東部にできた樹海モールやイオンに奪われているのかもしれません。しかし、南部の二井田地区にニプロを中心とした工業団地ができたことは光明のようです。
私が、「寂れ」を取り上げるのは、その街を貶すためではなく、日本の政治や社会のありようが問題だと感じているからです。多くの政党や政治家が何十年も前から地方再生を標榜しています。この前の総選挙でも同様でした。しかし、一極集中は進むばかり、地方は衰退の一途を辿っています。政治家は、ただ票が欲しいだけでリップサービスをしており、本気で地方再生など考えていないと思わざるを得ません。
地方再生には、産業の創成とともに、新しく住宅地・商業地を作るのではなく、昔から人が住んでいる地域に人が住み続けられるような政策が必要だと思っています。
大町を抜けて、旧羽州街道は直進しますが、私は、永倉交差点を右折して国道7号線を東に向かい、今晩の宿泊地のグランドパークホテルを通り過ぎて、大館城跡に向かいます。
再び雨が本降りになってきましたが、もう少し、頑張りたいと思います。国道は、市役所前交差点で左折します。その先右手が大館城の本丸跡です。今は桂城公園(けいじょうこうえん)となっています。
大館城は桂城(かつらじょう)とも言われ、1582(天正10)年に浅利勝頼により築城されました。その後、浅利氏は断絶し、変わって安東氏のものとなりましたが、安東氏は関ヶ原の戦いの後に移封されます。江戸時代に入り、一国一城令のあとも横手城と同様に存続し、佐竹西家が代々城主となりました。戊辰戦争の時には、門1つを残し、全焼したようです。
本丸跡は、河岸段丘の縁にあり、北側は長木川を見下ろすようになっています。南側には市役所の調査があります。また、その東側は、桜櫓館(おろうかん)という瀟洒な建物があります。
桜櫓館は、大館町長を務めた桜場文蔵氏が1933(昭和8)年に建てたもので、たびたび大火に見舞われた大館旧市街地にあって、奇跡的に残った昭和初期の貴重な木造建築です。特徴的なのは2階の屋根から突き出るように、四方にガラス窓を配した展望台があることです。杉の良材がふんだんに使われた内部は、質の高い空間が創出され、国登録有形文化財となっています。部屋を借りて、使用できるようです。
この後は、いつものようにコンビニに寄ってから、ホテルに入館し、本日の旅を終えました。