ごまめの旅日記

街道等の歩き旅を中心に旅の記録を紹介します。

羽州街道を歩く 2 関宿〜間の宿干蒲

令和5年5月4日(木) 晴れ 風やや強し

関宿〜間の宿干蒲(宮城県七ヶ宿町)

 2日目。山の幸をふんだんに使った夕食をいただき、ぐっすり寝られて、爽やかな朝を迎えました。今日も天気は上々です。同宿の釣り人が、朝早く出るというので、一緒に、6時から朝食をお願いしました。7時に出れば、干蒲発12時のバスに間に合うと思います。午後は、温泉に浸かって、昨日の疲れを癒すことにしました。宿のおかみさんがおにぎりを作ってくれたので、昼食の心配はありません。ありがたい。7時に宿を出発し、干蒲宿まで16㎞ほど。今日もよい1日にしよう。

滑津まで

 ファミリーマートでお茶を買って、国道113号線を西に向かいます。少し行くと右手に堆肥の山が築かれていました。この先の「新誠木材」という会社が、受け入れた木材を使って作っているのかと思われます。路地にそのまま、大量に積んであるのは、初めて見ました。
 歩道がない国道歩きでやや心配しましたが、朝早いためか、クルマ通りは多くありません。新緑が清々しい。しばらく行くと緑色の水管橋が見えてきます。国道は板滑橋で白石川を渡ります。橋の下を見ると大きな岩盤の上を川の水が流れています。橋の名前の由来はこれかと思います。渡り切ったところ左手には駐車スペースがあって、川の向こうに「牛淵の滝」があります。

板滑橋から見た白石川

 その先、少し行くと右手に滑塚原古戦場跡との標柱がありますが、詳しくはわかりません。伊達と上杉が争ったのかな。

 その先は滑塚の集落である。集落の入口に「羯羅離 不忘庵」(「からりふぼうあん」だろうか)という陶芸を行なっている家があります。HPによると築150年の古民家を改造して庵を作ったとのことですが、現在、休業中です。

 先に進むと滑津宿の手前右手に「ペンション白い時計台」の建物が見えますが営業しているのでしょうか。


滑津宿

 その先が滑津宿です。宿内に入ると大型の民家が軒を連ねています。右手に大きな兜造りの蕎麦屋「吉野屋」があります。ここは元気に営業しているようです。元は茅葺きだったのでしょう。

 その斜向かいに大きな茅葺きの屋敷があります。天保期以後に本陣、検断屋敷、肝入り、問屋場を兼ねていた安藤家の住宅です。安藤家は現在もここに居住して生活しているとのことです。また、安藤家は住友銀行で活躍し、のちに住友不動産の社長・会長を歴任した安藤太郎の生家でもあります。天保以前は桜井家が本陣を務めていました。桜井家は伊達家について関ヶ原の戦いにも参戦したとされるこの地域の有力者です。

安藤家住宅

 宿の西端のところに枡形があり、正面にはかつての滑津分校の門が残っています。

 枡形から国道に出たところに振袖地蔵があります。以下のような言い伝えがあります。

その昔、秋田藩の殿様が参勤交代で江戸へ向かう途中、滑津付近で美しい娘を見初めた。殿様はその後も娘を忘れることができず、一年間の江戸住まいを終えると、家来に命じて娘を探させた。しかし、娘はすでに亡く、殿様は深く悲しみ、供養のために娘に似せて振袖姿の地蔵を作った。

振袖地蔵

 振袖地蔵を過ぎて先に進むと、右手に砂利道が伸びており、そこに羽州街道古道の道標と説明板があります。砂利道ではなく、谷筋に沿って続く草付き道を進むのが古道です。古道は上小松沢川に沿って進んでから木橋で川を渡り、再び国道に合流します。

古道にある木橋

滑津大滝

 先に進むと左手に滑津大滝の広い駐車場があります。駐車場手前の階段を降りると滝の近くまで行くことができます。滑津大滝は、高さ約10m、幅約30mの二段の滝です。滝が形成されている滑床は、広さ100㎡の凝灰岩で、これが「滑津」の名前の由来のようです。

滑津大滝


親子松・滑津小滝

 先に300mほど進むと左手に分かれ道があります。こちらが旧街道です。国道から分かれて進むと赤い四脚門のような屋根の中に大きな草鞋があります。その側に松が生えており、親子松とよばれています。
 親子松は、街道沿いの道祖神の目印にもなっていた2本の松です。1本は途中から枝分かれして双幹の松であり、親が子を庇護する姿に見えたので「親子松」と呼ばれるようになりました。その松は樹齢は約350年になりましたが樹勢が衰え、平成22年に伐採されました。現在は、新たな松が植えられています。また、この地は、昭和61年から開催されているイベント「わらじで歩こう七ヶ宿」の中間地点となっており、その関係で大きなわらじが備え付けられたそうです。

 街道は、草鞋の前を通過して、先ほど別れた国道の橋の下を通り、その先で白石川を渡ります。川沿いに進むと、森の向こうに滑津小滝わずかに見ることができます。そして、国道と合流します。

 少し行くと、左手の山肌が崩れているようなところがありました。土砂崩れがあったのでしょうか。気になります。

親子松

大きな草鞋

 

峠田宿

 さらに進むと「七ヶ宿スキー場」の道路標識が見えてきます。左手の民家の脇に、石塔のようなものが並んでいる場所がありますが、詳しいことはわかりません。

 その先を左折すると「七ヶ宿スキー場」です。夏場はキャンプ場になっているようです。角の向こう側には峠田公民館の立派な建物があり、公民館脇の遊具の前に「峠田宿」の看板があります。

右手には「ベガルタハウス」があります。七ヶ宿町はサッカーチーム「ベガルタ仙台」と提携して、空き家を活用する事業を行なっているようです。宿泊することができ、様々なイベントや体験学習に参加できるようになっています。

 この宿も「越後屋」「柏屋」など旧屋号を書いた看板が掲げられています。

 峠田宿のはずれには、関宿にあったものより大きい東北福祉大学の千年塾の建物があります。古民家を改築したような感じです。

 さらに進むと、前方に黄色に染まった畑が見えてきます。近づいてみると菜の花でした。結構広い面積に菜の花が植えられています。油を摂っているのでしょうか。

峠田宿に入る

菜の花畑



湯原(ゆのはら)宿

 その先、白石川を渡ると、湯原宿の手前の集落があります。右手には七ヶ宿町への移住を推進している「七ヶ宿くらし研究所」が運営する「くらけんカフェ」があります。人口が1500人ほどになってしまった七ヶ宿町は、移住者を積極的に受け入れています。古民家を活用して移住を進めるとともに、子育て世帯への支援として、子供の医療費、出産費用などの援助を行なっているそうです。七ヶ宿ダムからの税収がある上、人口が少ないので、住民一人への分配が割合豊かだという話を聞きました。

 その先、左手に「湯原宿」の看板があり、その先には蕎麦屋「まるいち」があります。

 この先は、一旦、民家が途切れますが、しばらく行くと集落が始まり、左手には湯原診療所・保育園の建物があります。その先で街道は国道と別れ、斜め右に入って行きます。ここが、湯原宿です。

 国道から分かれるとすぐ、右手に熊野神社入り口の幟を掲げるための柱があり、その奥に鳥居があります。その先に湯原駐在所があり、隣には「松野屋」というお店があるが営業していないようです。

 湯原宿は高畠方面へ向かう二井宿街道との分岐点に当たるため、関宿に次ぐ規模を持つ宿場でした。本陣、脇本陣の他に旅籠が40軒ほどあったようです。現在でも割と大きな集落になっています。1500mほどまっすぐな道を進むと左手に公民館があり、さらに150mほど進むと枡形があり、右手に本陣の跡があります。

湯原本陣跡


突き当たりを右へゆくと「御館」地区となります。ここは、室町時代にこの辺りを支配していた横尾氏が根拠としていた湯原館跡です。江戸時代に入り、伊達藩の領地となると、伊達家一門の石川氏の家臣が入居し、藩境の警備にあたっていたようです。二の丸にはかつて湯原分校がありましたが、現在は七ヶ宿くらし研究所の施設である「ふるさと体験交流館」と「街道ホステルおたて」になっています。

 街道は左折し、その先を右折して進みます。200mほど行くと簡易郵便局があり、その先に番所があります。向かいには東光寺があります。

 東光寺は、室町時代に米沢で開山したと伝えられ、伊達家九代政宗夫妻の位牌を安置している寺です。その後、江戸時代に二井宿峠の玉ノ木原を経て現在地に移されたとのことです。本殿は昭和28年に焼失。往時の面影を漂わせる江戸時代建立の山門が残っています。現在は、街道沿いに新しい門ができていて、江戸時代の門はその奥にあることに気づきませんでした。

番所

東光寺

 さらに進むと国道に合流します。湯原宿はここまでです。国道を500mほど行くと羽州街道と二井宿街道の追分である東沢です。国道は直進し、二井宿峠を越えて高畠に下ります。旧羽州街道は右折して緩い登り坂となります。ここからは県道13号線です。

間の宿干蒲

 緩いほぼ直線の坂道を上っていきます。この先は金山峠となりますが、金山峠は、比較的なだらかな峠のようです。どこに行っても、昔の人が良いルートを選ぶことに感心します。

 2.5㎞ほど行くと民家が見えてきます。そして「干蒲間の宿」の看板があります。干蒲は、湯原宿と楢下宿の間にあった「間の宿(あいのしゅく)」で、当時も家屋が15軒ほどしかなかったようであす。関宿から道のりで16㎞離れ、標高差が230mですが、ここは豪雪地帯のようです。2021年にNHKの番組で、「限界集落」として紹介されました。その当時で、住民は15人、一人を除き全員65歳以上でした。

 左手に干蒲分校の跡があり、現在は公民館となっています。その先に消防団の倉庫があり、この先辺りが最も民家が集まっているところです。右手には営業していない酒屋があります。集落の上の外れあたりに干蒲のバス停があります。

干蒲集落

 時刻は11時を過ぎたところです。バスが出る時刻までまだ1時間ほどあります。バス停の隣の家の脇に座って、宿のおかみさんが作ってくれたおにぎりとバナナを食べ、休憩していると、消防団倉庫付近に停まっていたクルマの人がやってきて、どこに行くのかと聞いてきました。バスを待って、関宿の温泉に行くつもりだと話すと、自分のもそっちに行くから、よかったら乗せていってくれるとのことです。これは助かったと思い、お言葉に甘えることにしました。

干蒲のバス停

 クルマの中で話を聞くと、干蒲で暮らすのは、現在7人とのこと、自分の家も干蒲にあるが、今は住んでいないで、休日に片づけに来ているとのことである。もちろん現在は全員65歳以上となっているはずです。

 ここでも、大都市一極集中の姿を見ることとなりました。先祖伝来の土地に安心して住み続けることができるようにならないものでしょうかね。

 明日は、ここから峠を越えて上山まで行くと話すと、その人も、若い時は、休日に徒歩で峠を越えて、赤山からバスに乗って上山まで行き、映画を見て帰ってくるのが楽しみだったということでした。

 送っていただいた上に貴重なお話、ありがとうございました。

 

Wood&Spa や・すまっしぇ

「や・すまっしぇ」へ向かうと、営業は13:00からでした。隣の「Café こ・らっしぇ」へ行ってみると、割と多くの人が順番待ちをしています。結構人気があるようです。読書スペースで休憩して、13:00に温泉へ向かいました。

 こじんまりとした温泉施設で、結構混んでいます。通常の湯と炭酸泉、サウナにも入りました。ゆっくり時間を過ごし、疲労回復に努めました。

 その後は、読書スペースに戻って、いくつか本を手に取り、頃合いを見て宿に戻りました。今晩は、もう1組、客が増えるようです。おかみさんお話では、関宿では今、300人くらいが暮らしているとのこと。干蒲は、雪が多いのでここより大変だろうとのことでした。

山の幸ふんだんの夕食をいただき、安らかに眠る。明日は、いよいよ山越えだ。

旅の記録

スタート 関宿  7:00

ゴール  間の宿干蒲 11:00

道のり  約16km

時間  約4時間(休憩見学を含む)