ごまめの旅日記

街道等の歩き旅を中心に旅の記録を紹介します。

羽州街道を歩く 1 桑折宿〜関宿

 桑折宿(福島県桑折町)〜関宿(宮城県七ヶ宿町)

 2023(令和)5年 5月3日(水) 晴れ、風やや強し

 「旧街道歩き旅の楽しみ」は一旦中断し、旧羽州街道を歩いた記録を紹介します。「旧街道歩きの楽しみ 2 戦略」で紹介したルートです。

 では、始めます。

 令和5年の大型連休から、羽州街道の旅をスタートさせ、再び、青森を目指すことにしました。羽州街道は、東海道中山道に比べ、情報が多くないので不安があります。また、冬は、雪が多そうで、天候にも不安があります。

 スタートは福島県桑折宿のはずれ、奥州街道との追分とします。私は2019年の大型連休、平成最後の日に、奥州街道の旅でここを通過しています。ここから、小坂峠を越えて宮城県の七ヶ宿町に入り、その先の金山峠を越えて上山市にぬけるのが第1回のルートとなります。

 七ヶ宿から上山まで32㎞あり、ここをぬけるのは難しいと思っていましたが、調べてみると、七ヶ宿の中心地である関宿から金山峠下の干蒲宿まで、町営バスが通っていることがわかりました。それに、関宿には、宿屋が1軒あることもわかりました。そこで、以下のように計画しました。

1日目 追分から関宿まで歩き関宿で1泊

2日目 関宿から干蒲まで歩いてバスで関宿に戻る

3日目 バスで干蒲まで行って上山に抜ける

 しかし、小坂峠と金山峠の旧道が通行できるか情報がなく、不安は完全には解消されないままでした。

 実は、小坂峠から七ヶ宿までは、今から14年前、2009年の8月末に、次男と二人で、南蔵王にキャンプに行った時にクルマで通ったことがあります。その時とどう変わっているかも楽しみの一つです。

 福島駅で東北新幹線から東北本線に乗り継いで桑折駅へ。駅のすぐ近くの桑折追分から羽州街道の旅のスタートを切りました。

 

1 桑折追分から半田へ

 今回は、追分を左へ進みます。すぐに線路沿いに出ますが、羽州街道の標柱が、民家の間の狭い路地にあります。ここが元々の街道かと考え、路地を進みます。路地もやがて線路にとっつくので、線路沿いに少し進むと、左手に歩行者用のアンダーパスがあります。ここをくぐって線路沿いの道を進んで次の交差点を左折して進みます。左手に半田公民館、半田醸芳幼稚園を見て、その先の半田醸芳小学校の前を右折して進みます。その角には旧半田村の道路元標があります。
 「醸芳(じょうほう)」とは、酔ってしまいそうな名前ですが、桑折町の学校には全てこの言葉がついているようです。これは、明治天皇に同行した木戸孝允の書に由来し、人事育成の意味があるとのこと。銀山があったためなのだと思いますが、「反明治維新」の気風がある福島県で、この名前の付け方は微妙ではないでしょうか。

桑折の追分

 

 少し行って東北自動車道のガードをくぐると、その先の右手に半田銀山史跡公園があります。公園内の説明板によると半田銀山は以下のようなものです。

「半田銀山は807(大同3)年の発見と伝えられ、かつては佐渡金山、石見銀山と並び称されるほどの銀山であった。伊達信夫二郡を拝領した上杉家が調査を行い、寛文年間(1661年〜)から採鉱が始まった。1713(延亮2)年からは幕府の直轄地となり幕府の財政を支えたが、1864(元治元)年に経営不振により閉山した。明治になり五代友厚が再開発をし、復興を遂げたが、1950(昭和25)年に閉山した。」

 公園から北西方向に銀山は広がっていたようです。

 史跡公園には、ズリを運ぶトロッコが通る橋の橋脚の石積みと明治天皇行幸碑、女郎橋などがあります。

半田銀山史跡公園

2 御免町

 その先は、左折して進みます。左手に赤瀬の大カヤの標柱があるが、どれが大カヤかよくわかりません。

 この先は御免町、おそらく銀山で働く人々の中心となる集落があった場所です。左手に板塀で囲まれた邸宅があります。江戸期の北半田村の豪農早田伝之助の屋敷の跡であす。早田伝之助は、江戸末期に半田銀山の経営に乗り出したり、小坂峠の改修にも尽力したりしました。板塀の右側にかつての街道が残っています。通ろうとしましたが、脇の家屋が崩れかけていて通行不能でした。

 その先、益子神社の前を右折して進みます。民家がまばらとなり、国見町に入ります。標高が上がり、右手には伊達郡の平地が見渡せるようになります。少し行くと半田銀山の二階平抗口跡入口の標識があります。そして、太田橋を渡り、県道46号線に突つき、ここは左折します。この道路は、国見ICから小坂峠へ向かう道で、14年前にクルマで通った道です。

早田伝之助屋敷跡

 


3 小坂宿

 この先が小坂宿です。直線の上り坂の両側に民家が並んでいます。宿場を思わせるような建物は残っていないが、家屋の区割りは当時のままのようです。坂の上には松蔵寺観音があります。

 小坂宿は、羽州街道有数難所である小坂峠を控え、逗留する人が多かったようです。秋田藩主佐竹氏は秋田屋佐藤八郎兵衛家が営む本陣を、山形藩庄内藩天童藩新庄藩上山藩などはもう一軒の本陣である松屋清右衛門家を利用したとのことです。

 県道は松蔵寺観音の右手を巻くように登って行きますが、旧街道はもう少し松蔵院まで近寄って右へ曲がっていたようで、その角に桑折側の口留番所がありました。県道に出て緩いカーブの後、直線の登りとなります。結構な急坂です。

 

小坂宿

4 小坂峠

 直線路の途中に萬蔵稲荷神社の鳥居があります。直線を登り切り、最初のヘアピンカーブを曲がったところに小坂峠旧街道の入り口があります。弘法水という水場と石碑があり、少し登ったところに説明板があります。この地点の標高が265mで峠の頂上が437m、標高差170mを直線距離にして500mで登ることになります。平均斜度は34%で相当な急坂です。急坂で有名な大阪の暗峠の平均斜度が25%ということなので、その急坂の程度がわかりますね。

 熊除けの鈴を装着して山道を行きます。登り始めてすぐ、慶応年間に早田伝之助が作ったといわれる新道と旧来からの「産坂(さんざか)」との分かれ道があります。思い切って左手の産坂を行くことにします。一応、木の階段が造られていますが、整備不十分で周囲から灌木が覆いかぶさっており、枝をかき分けながら急坂を登ります。

 産坂ルートは、ほぼ直登です。周囲にはオレンジ色のヤマツツジの花が見えます。格闘30分。最後の階段を登り頂上にたどり着きました。峠の下を見下ろすと国見町の藤田駅方面が見えます。茶色の大きな建物は藤田総合病院、14年前と同じ景色です。レストハウス萬蔵楽荘の建物はそのままですが、営業はしていないようです。建物の裏には小坂峠不動堂があります。秋田藩の佐竹氏が寄進したものといわれています。参拝して無事の登頂を感謝します。県道の向こう側にも赤い鳥居があります。金剛院祐観社の鳥居です。

小坂峠旧街道入口

小坂峠頂上から藤田駅方面を望む


 県道を北へ向かって進みます。峠の上は宮城県白石市です。左手の赤い鳥居の列は、萬蔵稲荷神社の参道です。神社へは行かずに県道を行きます。山々は新緑に彩られており、仙台平と呼ばれる広い谷筋を緩やかに下って行きます。昔の人は、良いルートを選んだものですね。やがて「上戸沢宿」の看板が見えてきます。


5 上戸沢宿

 看板に従って斜め右へ入っていくと集落があります。沢の手前の左手に番所の標柱、沢を渡ったところに検断屋敷の標柱があります。上戸沢宿は、山中七ヶ宿の最初の宿にあたり、峠を越えたあとの伊達藩側の番所が設けられていました。検断屋敷は、この先の材木岩公園に移築復元されているとのことです。その先、火の見櫓のところに上戸沢宿の説明板があり、左手の集会所の前に上戸沢宿のバス停があります。宿内は、かつては茅葺きだったと思われる赤いトタンの入母屋造の家屋が並んでいます。

 集落の末端で右折し、左にカーブして県道に戻ります。その先はほぼ平坦な道が続き、次第に周囲の山が低くなって行きます。

上戸沢宿

6 下戸沢宿

 しばらく行くと「白石湯沢温泉やくせん」の看板があり、さらに進むと左手に清光寺があります。その先に下戸沢宿があります。宿場に入ると屋根が崩れ落ちた茅葺きの家屋があります。ここも、元は茅葺きでトタン屋根に改修したらしき家屋が散見されます。

小原のヒダリマキガヤ」という標識に従って左折すると、駐車場のような広場の傍にヒダリマキガヤの古木があります。樹幹の縦線が左巻きになっている珍しいカヤの木だそうです。

 街道に戻って進むと正面に火の見櫓と集会所があります。ここは桝形になっており、街道はここを左に折れて進みます。

 下戸沢宿の看板を過ぎると道は二股に分かれ、ここは左に進むと右からくる道と合流します。交通量が一気に増えます。この先は長い直線路になっており、右手には白石川が流れています。

下戸沢宿

7 材木岩公園

 しばらく行くと、左に飛不動尊方面へ行く道が分かれます。不動尊の先は、七ヶ宿ダムダム湖の右岸の道となり、こちらに向かうクルマも結構あります。旧街道は直進。先に進むと道路は二股に分かれ、左に行くと材木岩公園があります。旧街道はこちらです。

 公園に立ち寄ることにします。連休中とあって、駐車場にはクルマがいっぱい。公園は家族連れで賑わっています。公園の奥からは材木岩と呼ばれる石英安山岩の柱状節理を見ることができます。白石川に沿った高さ100mの絶壁です。「昔、飛騨工匠が一夜のうちに不動堂を立てようとしたが夏の夜は短く、もう一息のところで夜が明けてしまったので、材木片を河中に投じて去った。それが岩と化して材木岩となった。」という言い伝えがあります。

 公園の中に上戸沢宿の検断屋敷・木村家の家屋が移築されています。大きな茅葺き屋根の建物です。

材木岩

検断屋敷 木村家

 


8 七ヶ宿ダム

 この先、旧街道は白石川の上流へと向かっているのですが、七ヶ宿ダムができたためにダム湖の湖底に沈んでいます。このままダムに向かって、ダムのところを上に上がれれば、旧街道に沿っているし、道のりも短くなりますが、ダムを上れるのかがわからないので、安全策をとって二股まで戻り、国道113号線へ出ることにします。

 国道113号線に出て、西へ進みます。国道からは通ってきた仙台平の様子が俯瞰できます。トンネルを抜けると七ヶ宿ダムの脇に出ます。七ヶ宿ダムは、1991(平成3)年に竣工した多目的用途のロックフィルダムです。これにより、七ヶ宿町内の渡瀬集落、原集落、追見集落の158世帯とそれを貫く羽州街道が水没することになりました。私と次男は14年前にここを訪れ、ダムの内部を見学しました。

 ダムの上から下を見てみると、材木岩公園から先に進んでも、ダム下の公園のようなところからダムの左側の方へ登る階段があることがわかりました。ここを通ればもっと早くここに来られたようです。
 


9 七ヶ宿湖周辺

 七ヶ宿ダムによって作られた七ヶ宿湖の湖水を見下ろしながらダム湖の北側(左岸)の国道113号線を西へ進みます。休日のためか交通量が多く、特にオートバイの集団ツーリングが目立ちます。現代においても宮城から山形に抜ける主要なルートとなっているのでしょう。

 やがて「渡瀬(わたらせ)宿」の看板が見えてきます。渡瀬宿は、家数27軒の羽州街道の宿場でしたが、七ヶ宿ダム建設のために湖底に沈みました。脇に「わたらせの記」という石碑があり、それによると56戸169人が移転したと記されています。渡瀬宿の他に原、追見(おっけん)の集落が水没しています。

 かつては白石川に流れ込んでいた支流や沢を橋で越えながら西へ進むと左手に大きな建物と駐車場があります。建物には「七ヶ宿ビューランド」と書かれているますが、営業していないようです。さらに、大梁川橋を渡ると、左手には七ヶ宿ダム自然休養公園が見えてきます。芝生の広場や運動場がある広い公園です。その先には「道の駅七ヶ宿」が、隣接して「水と歴史の館」があります。

 この先は、白石川よりの道を進めたのですが、気がつかず、国道を進みました。

10 関宿

 横川を渡ると左手に傾城森方面へ行く道があります。その先は、右手に横川集落の方へ向かう道があります。直進すると内川橋で白石川を渡って、関宿に入ります。さらに進むと、右手に七ヶ宿郵便局があり、その先に東北福祉大学の看板があるところの建物に「本陣」の看板があります。庭園の一部が残っているそうですが、どれがそれなのかよくわかりません。建物の西側には本陣の説明板が立っています。それによると、この本陣は、東海道の本陣の中程度の規模があり、一度に200人が宿泊できた。東北地方13藩が参勤交代時に宿泊したとのことです。七ヶ宿は、かつては、出羽地方と福島の中通りを結ぶ大動脈であったことがわかります。また、幕末には、ここに仙台藩米沢藩会津藩二本松藩、相馬藩の家老が集まり、官軍への対応を話し合ったと書かれています。この会談は、のちに奥羽越列藩同盟へと繋がっていく。

関本陣跡


 その先の交差点は、町内唯一の信号がある交差点です。左折すると正面に森林組合の建物が、その裏手に関泉寺(かんせんじ)があります。関泉寺は1626(寛永3)年創建で、本尊は阿弥陀如来、本堂には江戸時代に描かれたといわれる「間引き戒めの絵」があります。これは、口減らしのための堕胎を戒めるために描かれたものと思われます。また、観音堂には「聖観音像」が安置されている。さらに、境内には「ぴんぴんころり地蔵」があり、近頃は、これが信仰を集めているようです。

 森林組合の前を右折すると左手に町役場の建物があります。

観泉寺

七ヶ宿町役場


 七ヶ宿町は、1889(明治22)年に関村、渡瀬村、滑津村、湯原村が合併して七ヶ宿村となり、1957(昭和32)年に町政を施行して生まれた町です。町名は羽州街道の山中七ヶ宿(上戸沢宿、下戸沢宿、渡瀬宿、関宿、滑津宿、峠田宿、湯原宿)に由来します。現在の人口は1171人で、宮城県で最も少なく、減少率も丸森町に次いで第2位とのことです。宮城県内でも最も過疎が進んでいる地域といえます。しかし、ダムからの税収があり、財政は比較的豊からしいです。町では、子育て家庭への優遇措置を豊かにし、移住を積極的に進めています。そのせいか、10代人口の割合が多いのです。(もちろん高齢者が最も多いですが)

 信号の交差点に戻り、旧街道を先に進みます。右手にはこれから2泊お世話になる七ヶ宿館があります。まだ、時刻が早いので、少し宿内を巡るとしましょう。

 その向かいには秋田藩が定宿としていたらしい「秋田屋」の看板を掲げた家があります。先に進むと右手に水分神社(みくまり)の鳥居がありますが、本殿は、白石川を越えた山の中腹にあるようです。

 さらに進むと左手に「関の地蔵」があります。これは滑津宿にある振袖地蔵と同時期に造られたと考えられており、振袖地蔵と向き合っているそうです。

関の地蔵

 その先左手にファミリーマートがあり、右手にはガソリンスタンドと「なないろひろば」があります。広場の奥には、日帰り温泉施設の「Wood&Spa や・すまっしぇ」と図書館とカフェの「Book&Café こ・らっしぇ」があります。どちらも町営のようです。ここは、国道113号線を通るクルマやオートバイの休憩地となっているようで、非常に賑わっています。

こ・らっしぇ

 七ヶ宿は、町としては縮小していますが、幹線ルートであることは、昔と変わらないようです。住んでみると結構住みやすいかもしれません。若い人は移住も考えてみてください。

 この辺りで七ヶ宿館に戻って、明日に備えるとしましょう。

旅の記録

桑折追分〜関宿  道のり約26km

スタート     8:30

ゴール     15:00   

歩いた時間   6時間30分(休憩、見学を含む)