令和5年5月5日(金)晴れ、雲やや多し
3日目。いよいよ山越えです。温泉で温まったためか、疲労感が軽減し、コンディションは上々天気も上々。7時朝食をとり、8時に宿を出る。今日も宿のおかみさんがおにぎりを作ってくれたので、昼食の心配はありません。ありがたい。ファミリーマートで飲み物を買ってバスを待ち、昨日の復習をしながら干蒲宿までバスで移動。乗客は私一人でした。経営は大丈夫なのかな。干蒲でバスを降り、金山峠へ向かいます。
金山峠
峠側の「干蒲間の宿」の看板を過ぎると民家が途絶えます。右手には山が迫っているが、左手は大きく開け、その向こうには、木を切り出すためのツヅラ折れの道が山を登っているのが見えます。開けたところには白石川が流れています。
まもなく左に分かれる砂利道が見えます。こちらが旧道です。「いよいよ峠越えだ。」と気負っても、なだらかな登りが続きます。
その先の二股は「鏡清水」の標識に従って右へ進みます。開けた谷を緩やか詰めていくと鏡清水の屋根が見えてきます。
鏡清水は白石川の源流の1つです。ここから湧き出した一筋の流れは、周囲の湧水を集め、割と早く大きな川になります。
現在の鏡清水は、木で作られた屋根の下にあり、石の間から水が湧き出しています。これが白石川の最初の1滴です。すぐ下流には「白石川跨ぎ橋」があります。10㎝ほどの流れである。すぐ上には県道13号線が通っていて、県道沿いには白石川源流の石碑と説明板が立っています。説明によると「鏡清水」の名は、昔、ここを往来する姫がこの水に顔を写し、髪の乱れを整えたことに由来するとのことです。参勤交代の折には、一行が喉を潤す貴重な水場だったことが記されています。
県道を西へ行くと峠の頂上、県境があります。ここから山形県上山市に入ります。あっけなく峠の頂上に達しました。奥羽山脈を越えるルートとして、旧羽州街道はなかなかよいルート取りをしているのではないかと思います。なぜ、現在、このルートを使わないのかますます不思議です。
少し先の右手には小さな弘法大師像があり、その先の木の階段の上に、金山峠不動堂があります。秋田藩主が寄贈したものらしいが、現在のお堂は新しく見えます。再建されたものでしょう。
その先、県道は下り坂となりますが、その左手に標識と説明板があります。ここが旧道の入り口です。旧道は国指定史跡となっています。こちらに来る前は、旧道の情報がとれず、通れるかどうか心配でしたが、きちんと整備されているようで安心しました。国の史跡なら、もっと広くアピールして、人を呼び込んだらどうでしょう。
始めは少し急に下ります。木道や木の階段もあり歩きやすいです。今日はトレイルランニング用のシューズに履き替えてきたので、楽々下ることができます。次第に山林の中の沢筋の道となり、下りが緩やかになると、ところどころに木橋があって、沢を渡りながら進んで行きます。心配なのはクマとの遭遇です。途中に木の標識がいくつかあるのですが、破損していて書いてあることがわかりません。だいたい下り切ったところに湯殿山と掘られた石碑と「八日講供養之塔」と掘られた石碑が並んでいるところがあります。
金山宿
予想よりあっけなく峠を降り、左手に民家が現れます。しかし、廃屋のようです。その先で舗装道路に突き当たります。ここにも説明板があります。ここは右折して進みます。民家が数軒あります。この辺りが金山宿なのでしょう。金山宿も間の宿です。かつては茶屋などもあったようですが、現在は誰も住んでいないのではないでしょうか。
金山川に沿って緩やかに下っていくと左手の山肌を降りてくる道路に出ます。ここも右折して進み、少しいくと県道13号線と合流します。宮城県側も13号線だったのですが、山形県側も13号線です。前方には赤山鉱山の赤い山肌が見えます。赤山鉱山は江戸時代初期には金、銀、銅を採掘しており、明治以降も硫化鉄などを採掘していたらしいです。現在は、閉山し、ここから流れ出る水の廃液処理のみが行われています。
赤山
合流して少し行くと赤山の集落内を通る旧道が分かれます。集落に入り、丁字路を左に行くと赤山分校跡があります。現在も集会所か何かとして活用されているようです。丁字路を直進すると左手に赤山のバス停があります。本数は少ないですがここからバスで上山駅まで行くことができます。右手には大きなつぶれそうな家屋が、その先に新しい三階建ての蔵があります。ここはしっかりと生活感があります。
集落を抜けると県道に出ます。県道13号線は、この先の丁字路で左折して進みます。旧街道もこちらです。
楢下宿(ならげしゅく)
赤山から先は比較的広い谷となっています。広々した県道を進むと「楢下宿」の道路標識が現れます。これに従って左折し、金山川を渡り、右折して進みます。山と川の間の道を進むと左手に楢下の一里塚跡があります。そして、その先に集落があります。その中に一際大きな整備された屋敷が旧丹野家住宅です。
丹野家は庄屋を務めた家柄で、屋号が「滝沢屋」。往時は宿場の中心、下町地区にあったのですが、ここに移築保存されています。脇本陣として大名や、上級武士の宿泊に使われ、参勤交代のない時には、出羽三山詣の行者など一般の旅人が宿泊する旅籠(はたご)としても機能したようです。「滝沢諸白」という銘酒の造り酒屋も営んでいたようです。1757(宝暦7)年の大水害以降の建物だと推測されている。
裏手は公園となっており、休憩ができます。
先に進むとまもなく楢下宿に入ります。一番手前の新町に武田家住宅があります。これは、旅籠を営んでいたと考えられる家屋の遺構で、建物は木造平屋建て、寄棟(北側の張り出し部分は切妻)、茅葺、平入り、外壁は真壁造り、土壁仕上げ(北側の張り出し部分は板張)となっており、農家建築と町屋建築の両方の特徴があります。台所の墨書から1759(宝暦9)年の竣工だと思われます。
その先が桝形となっており、丁字路を右折します。その角の郵便局が番所跡です。その先は下りとなっており、左手に大きな茅葺きの佐藤家住宅があります。その先、新橋を渡り、金山川の畔に出ます。
突き当たりを右に行けば楢下城跡の方へ行きます。楢下城は、最上氏に属する最南端の砦で、伊達氏との争いで重要な役割を果たしたと考えられています。
街道はここで左折し、北へ進みます。するとそこは宿の中心地である下町です。右手に脇本陣庄内屋があります。庄内藩が常宿としていた1750(寛延3)年ごろに建てられた家屋といわれ、楢下宿の中でも最も古いそうです。
その先の右手、新しい住宅が建っている広い敷地が本陣跡と思われます。斜向かいが大黒屋で、これは向かいから移築されたようです。脇には駐車場があり、内覧できるようになっています。連休中ということもあり、数組の見学者が訪れていました。
その先は突き当たりとなり、街道は左に折れます。突き当たりの手前右手が旧丹野家住宅(滝沢屋)があった場所です。
左折して進むと、そこは横町です。覗橋で金山川を渡ると左手に山田屋があります。その先は元の道にぶつかるので右折して進みます。この辺りが上町です。ここにも脇本陣など古い家屋があります。
皆沢・三上・相生
その先は、旧本庄村域を通る「本庄街道」とそれより古い牧野村域を通る「牧野街道」との分かれ道があります。道がはっきりしていそうな本庄街道を行くことにします。その先、民家が途絶え、楢下宿宿尻の看板があります。楢下宿もここまでです。そして、皆沢(みなざわ)交差点で県道13号に出ます。この後は上山市街地まで、県道を行くことになります。
この辺りは旧皆沢村で、ずっと果樹農園と民家が入り混じった地域が続きます。農園では、さくらんぼやラ・フランスを生産しているようです。500mほど行くと賑わっているところがあります。丹野こんにゃく店です。
そこからさらに1㎞ほど行くと左手に龍谷寺があります。その先に皆沢公民館、さらに400mほどで本庄地区公民館、その先は三上地区となります。
神明神社の入り口に「三上の文明十一年板碑」があります。これは1479(文明11)年に建立された石塔婆で、石材として利用しようとしたが銘があることがわかり切断を中止したそうです。1731(享保16)年に銘を刻み直し、再建したとのことです。
その先には三上公民館があります。その先の延命寺の脇を入って田圃の傍のマンホールに座って、おにぎりを食べ、通常のジョギングシューズに履き替えます。
その先は、相生地区に入ります。民家と果樹園が入り混じった風景は相変わらず続きます。相生公民館を過ぎて関根地区に入ると前方に高速道路のガードが見えてきます。山形中央自動車道と国道13号線上山バイパスのガードをくぐると三本松地区に入ります。
三本松・長清水
県道はこの先で斜め右に向かいます。左は米沢方面で、羽州街道と米沢街道の追分です。左手に追分碑があります。説明板によると、「元禄四辛未年」の刻印があり、元は供養塔だったものを道標としての刻印を施したものということです。
斜め右に進むと、この先は長清水地区で、民家が増えてきます。少し行って南中学校入口の看板の先で、県道から分かれて斜め左に入ります。民家の間を進むと奥羽本線の線路に突き当たりますが、よく見ると地下道があり、線路を渡ることができます。直進して市街地に入ると、ここは南町で、その先は二日町となります。そして、山形屋という酒店がある交差点が本日のゴールです。3日間で60㎞弱、よく頑張りました。この後は駅に荷物を預けて、上山市内の散策を行うことにします。
上山市散策
上山市は、上山藩の城下町、羽州街道の宿場町、上山温泉郷のまちと3つの顔を持つ人口約2万8千人の都市です。温泉は1458(長禄2)年に僧侶・月秀が、鶴が温泉で傷を癒しているのを見て、発見したと言われています。室町期には、最上氏と伊達氏が領有を争い、江戸時代になると松平重忠が入り上山藩が立藩されました。その後、領主は蒲生氏、土岐氏、金森氏と点々とします。明治以降は、山形市に連なる都市圏を形成し、観光やくだもの栽培で栄えてきましたが、近年は人口減少と高齢化が進んでいるようです。著名出身者には大正から昭和初期に活躍した歌人・斎藤茂吉がいます。
散策の初めは、沢庵和尚がこの地に流罪となった折、領主の土岐頼行が仮住まいとして提供した春雨庵に行きます。途中にたくさんの赤い鳥居が連なる栗川稲荷神社があります。
春雨庵はこじんまりとした本宅と瀟洒な茶室で構成されています。本宅の玄関を開けると正面に沢庵和尚の像が据えてあってギョッとしました。
次に向かったのは武家屋敷です。武家屋敷通りに4つの武家屋敷が保存されています。新湯の月岡ホテルのところから北へ進むと手前から森本家、三輪家、山田家、曽我部家となります。どれも1800年頃の上山藩士の屋敷だと思われます。このうち三輪家と曽我部家は市が所有しており、見学が可能です。
その先に進むと藩校であった明新館跡がある。そして中之坂を経由して右折し、湯町に入ります。湯町の中心部、薬師堂の前には足湯が設置されています。その脇に、上山温泉発見の逸話にちなんだ「鶴の休石」というモニュメントがあります。角を右折してゆくと旅館山城屋があります。山城屋の旧館は1918年建造の有形文化財です。山城屋には、斎藤茂吉の弟・直吉が養子に入り、茂吉も山城屋にしばしば滞在し、館内には茂吉の遺品が残されていたようです。
その先の月岡公園から上山城の天守に向かいます。天守は模擬天守で郷土資料館となっています。入館し、最上階から周囲を眺めます。南東方向に大きく見える三吉山(さんきちやま)を基準に右に回ると、眼下に市街地とかみのやま温泉駅、その向こうに景観にそぐわない「スカイタワー41」という高層マンションがあります。右に回ると市役所、その奥に高盾城があった虚空蔵山、眼下に本丸跡である月岡神社、さらに右へ回ると三の丸跡の月岡公園、市街地の向こうに雪をいただく蔵王連峰と見ることができます。
月岡公園にはイザベラ・バードの碑があります。この先の羽州街道は明治時代にイギリス人のイザベラ・バードが旅したルートに重なります。しばしば、イザベラ・バードに言及することになると思います。
公園から下大湯共同浴場へ向かいます。時間があるので、入浴することにします。昔ながらの共同浴場で、150円で入れますが、体を洗うには別料金がかかります。昔ながらの共同浴場で、アツイ湯です。
入浴後、十日町で羽州街道に出ます。左手の和菓子屋の十五屋本店は江戸時代の商家風です。その先の島津酒店が本陣跡。その脇の「本陣しまづ旅館」は現在も営業しているようです。
右手には長屋門に商店が入ったような場所があり、その中の1つが長屋門ギャラリーというイベントスペースになっています。その脇に十日町の市神石幢があります。
その先の新湯通りとの交差点はランナバウトのように円形の線が書いてあり(実際はランナバウトではない)、角にはカミング広場というポケットパークがある。その先右手が総合施設の「ふつかまちプラザ」である。
その先、新町川を渡ったところに映画「おくりびと」の撮影に使われたという創作布細工の店「上山コンチェルト館」があります。
ここまでで、市内散策は終わります。駅に向かい、帰路につきたいと思います。
かみのやま温泉駅は新幹線駅らしく、高い吹き抜けを持つモダンな駅舎になっています。駅前には斎藤茂吉の歌碑があります。新幹線の発車まで少し時間があるので、駅舎内のニューデイズでお土産を見る。脇に「アビヤント・K」というワインバルがあります。駅にワインバルなんて珍しいですね。
新幹線といってもミニ新幹線なので在来線のホームと変わりません。在来線の特急に乗るような感じで車両に乗り込み、駅を出ます。福島までは在来線と同じで、新幹線とゆうほど速くありません。要するに「東北新幹線から乗り換えなしで新庄まで行けるよ」ということで、福島から新庄までは在来線とスピードは変わらないのです。これが「ミニ新幹線」です。
旅の記録
スタート 間の宿干蒲 9:00
ゴール かみのやま温泉駅 13:00
道のり 約16km
時間 約4時間(休憩・見学を含む)