旧街道歩き旅の楽しみの第3回は「雨もまた楽し」ということで、雪中、雨中行軍の貴重な体験を報告したいと思います。
せっかくの旅行、できたら天候のよい時に行きたいものです。しかし、休日に予定を組んでいると、多少、天気が悪くても行かざるを得なくなります。
昔の旅人は、基本的に徒歩だったので、雨が降れば雨に打たれ、雪が降れば雪を踏み締めて歩いていたはずです。これを体験するのも昔の旅人の心持ちを理解する助けになるかと思います。
そこで、悪天候にめげずに旅に出ました。
そんな体験の中で、私も成長してきましたので、古い順に述べていきたいと思います。
今回の内容は
1 雪の妻籠宿 馬籠宿 2012.1.4〜1.6
2 猛暑の美濃路 2012.8.7〜8.8
3 奥州街道 4日連続の雨 2021.8.4〜8.7
4 大雪の青森 2021.12.26〜12.29
5 大雨の津軽半島 2022.8.9〜8.10
です。
1 雪の妻籠宿 馬籠宿
数ある旧街道ルートの中で、中山道の妻籠宿から馬籠宿に至る区間は、最も情緒深く、街道旅の醍醐味が味わえる区間だと思います。
2012年の1月4日から2泊3日の計画で、木曽の野尻宿から妻籠宿、馬籠宿に1泊ずつして、中津川宿まで歩く計画を立てました。当時は小学生の次男と一緒に歩いていました。2日目は馬籠峠越えですが、歩く道のりは8kmと短く、妻籠宿と馬籠宿をじっくり見学する計画です。
積雪は、ある程度は覚悟していたのですが、中央線で木曽へ向かうと塩尻駅で雪がちらつき始め、木曽平沢あたりでは一面の銀世界となりました。相当の積雪が見込まれます。
「これはやばい。暗くなる前に妻籠に着かないと。」
安全を最優先して、野尻駅の1つ先の十二兼(じゅうにかね)駅まで行ってスタートすることにしました。ここからは、木曽路随一の難所「羅天(らてん)」が始まります。ここは、木曽川が深くV字谷を刻んでいて、道を確保するのが難しい上、「蛇抜け」と呼ばれる鉄砲水が頻発する区間で、旅人に恐れられていた区間です。
我々は、雪の降りしきる「羅天」を国道19号線で抜け、三留野(みどの)宿へ。南木曽から雪の山中へ分入り、暗くなりかけた頃、妻籠宿に到着しました。次男は、関東ではあまり見られない雪と戯れながら歩きました。そして、古民家を使った民宿「坂本屋」さんに投宿。暖房具を使っても0°近い室温の中、こたつで温まり、地元の食材を使った食事をいただき、貴重な雪の一夜を過ごすことができました。
翌日は、天気が回復し、雪の残る美しい妻籠宿、馬籠峠、馬籠宿を満喫することができ、これまでの街道旅の中でも最高の1日を過ごすことができました。その日は、馬籠宿の馬籠茶屋さんに1泊し、3日目は、馬籠から山を下り、落合宿、中津川宿とたどりました。
馬籠から下る途中の正岡子規の句碑があるサンセット公園から中津川方面を望む景色は、街道随一の絶景です。
雪で苦労をしましたが、それだけに美しい風景との出会いは格別でした。
その後、2014年の秋にも、私と妻と次男の三人で妻籠宿、馬籠宿を訪れました。この時は、雨に祟られて大変でしたが、この上ないほど見事な紅葉の中を歩くことができ、これも素晴らしい旅となりました。雨もまたいいものです。
妻籠・馬籠と1つに括られることが多いのですが、両者は性格が全く異なります。狭い窪地にあり昔ながらの風情が色濃い妻籠、開けた山腹にあり観光化が進んだ馬籠、両方に宿泊して比べてみるとよいと思います。
2 猛暑の美濃路
冬の寒さは、着込めばどうにかなりますが、夏の暑さはどうすることもできません。熱中症に注意しながら歩くしかありません。
「大黒屋」の項でも述べましたが、中山道は、岐阜県の大井宿の先は、中央線が通る土岐川に沿って進むのではなく、北側の丘陵地をまっすぐ可児市のある平地に向かいます。大井宿から名鉄広見線の駅がある御嵩(みたけ)宿まで、30kmちょっとです。標高は300〜500mほどありますが、近くには猛暑で有名な多治見市があります。この辺りも日本で最も暑い地域の一つなのだと思います。
ここに向かったのは、無謀にも2012年の8月7日と8日です。中央線の恵那駅から御嵩宿まで、途中、細久手宿の「大黒屋」に宿泊し、2日かけて歩く計画です。猛暑は予想できましたが、自宅から離れたところを歩くには、夏季休暇を使わざるを得ません。
7日は朝から快晴でした。恵那ICの西にある西行の森から山道に入っていきます。ここから大湫宿までは、「十三峠」と呼ばれるアップダウンの連続となります。気温はぐんぐん上がってきましたが、峠道は森林の中を歩くので、比較的暑さは感じません。お昼近くになって大湫宿に着き、本陣跡にある大湫小学校の校庭の隅で、恵那駅前のコンビニで買ったおにぎりを食べました。
大湫宿を出ると、琵琶峠があります。大変だったのはこの先で、北野の集落のある辺りは、広い谷になっており、樹木が少ないので、炎天下を歩くことになります。ちょうど午後で気温も高くなっており、少しでも木陰があるとその下で休憩しながら進むという状況でした。一緒に歩いていた次男は、首に、濡らすと冷たくなるマフラーを巻き、冷感スプレーで体を冷やしながら進みました。そして、恵那駅を発ってから8時間、やっとのことで細久手宿の「大黒屋」に到着しました。
「1日、暑かった〜。」
しかし、夜になると気温は下がり、よく眠れました。
翌日も大変でした。この先も秋葉坂、物見峠と峠が続きますが、森林の中を歩いているうちは、アップダウンがあっても、日差しを避けられるので比較的楽です。そして、謡坂(うとうさか)地区を過ぎて、これも難所と言われた急坂の「牛の鼻欠け坂」を下ると御嵩の平地に出ます。御嵩駅まで残り2.5kmほどです。先が見えてきました。
しかし、大変だったのはここからです。日差しを避けるところがありません。疲れも出てきました。ここも冷感スプレーをかけながら、やっとの思いで御嵩駅に到達しました。
この区間は、本来、江戸時代当時の街道の様子が色濃く残る大変魅力的な区間です。歩いた時期が悪かっただけです。今度、ぜひ、気候のよい時、例えば秋の紅葉シーズンなどに行ってみたいものです。
話はまだ、続きます。
旧街道歩きの問題点の1つは、当時の道筋が現在でも一級国道になっている区間がとても多いということです。交通量が多い一級国道の側を歩かなければならなくなります。それでも歩道があればよいのですが、歩道がない区間も少なくありません。歩道があっても、途中で歩道がなくなったり、突然道路の反対側に移って、横断歩道も設置されていなかったりするところが至る所にあります。道路を設計した方は、自分の足で歩道を歩いてみてください。道路の設計者は、歩行者が歩くことは考えていないのだと思わざるを得ません。
たとえ、歩道があっても、炎天下の国道の側歩きは辛いものがあります。
この年は、8月末にもう一度街道歩きに行きました。8月20日に岐阜県太田宿から「日本ライン」を船で下り、犬山城を堪能しました。ここまでは、いつもより楽ちんな観光旅行でした。
大変だったのはこの先です。木曽川を渡ったところにある鵜沼宿から岐阜市の加納宿まで約17kmあります。暑いので、歩けるところまで歩いて、残りは明日と考えていました。
現在、各務原市があるこのあたりは、かつては「各務野(かがみの)」と呼ばれる水田が作れない平原でした。近くを木曽川が流れているのですが、水面の方が低いので、水が使えないのです。旧中山道は今は国道21号線となっています。ひたすらの国道歩きです。予想はしていましたが、気温が上がり、日差しを遮るものがない上、ひっきりなしに通り過ぎる自動車の騒音、非常に辛い街道歩きとなりました。並行しているJR各務ヶ原駅や名鉄三柿野駅で休憩しながら進みましたが、ついにギブアップ。名鉄各務原市役所前駅を本日のゴールとして列車で宿所がある名鉄岐阜駅へ向かいました。
3 奥州街道 4日連続の雨
2021年8月。世の中はコロナ禍のため旅行は自粛することとなっていましたが、街道旅は、人と交わることがほとんどないため、旅に出ることにしました。しかし、バチが当たったのか、東北の厳しい自然の洗礼を受けることになりました。このときは、8月4日から4日間で、一戸、二戸、三戸、五戸、七戸とたどる計画を立てました。通常なら天気が安定する時期ですが、盛岡以北になると、関東とは明らかに気候が違うようです。
盛岡の北方、映画「待合室」の舞台となった小繋駅に降り立った時はすでに雨が本降りとなっていました。それでもなんとか一戸駅までは到達し、三浦哲郎の小説に出てくる橋などを見学しました。
宿泊地の二戸までは、浪打峠という峠を越えなければなりません。雨が強くなってきてやや心配でしたが、頑張って行くことにしました。さすがに峠に入ると人の姿が見えなくなり、心細くなりました。それでも、豪雨の中、やっとの思いで浪打峠を越えて、福岡宿である二戸の街に到着しホテルに入館できました。
翌日も雨です。行先が心配になりましたが、九戸城跡を見学し、金田一温泉駅まで行きました。ここでも列車に切り替えようか迷った末、意を決して街道を行くことにしました。
釜沢へ向かう途中、傘がさせないほどの暴風雨となり、レインコートの中までびしょ濡れ、靴の中に水が入ってボシャボシャの状態です。その先の蓑ヶ坂を登ったところにある駕籠茶屋(かごちゃや)跡は、大きく蛇行した馬淵川(まべちがわ)を見下ろす絶景ポイントのはずですが、ほとんど景色は見えません。国道4号線まで下り、国道沿いの豊誠園食堂で昼食をとって元気をもらい、なんとか三戸の街へ到達しました。頑張って三戸城址にも行きました。
「うわー、今日も雨か。」
予定では、今回の旅の最高所である高山を越えて五戸に入らなければなりません。さすがにめげてしまいました。今回の旅のハイライトの1つである奥州南部氏の始まりの地である聖寿寺館(しょうじゅじだて)跡だけ行って、あとは青い森鉄道諏訪ノ平駅から列車で八戸に出て、そこからバスで五戸に行くことにしました。ちょっと後悔が残りました。
4日目は、やっと雨も小降りになり、予定通り五戸から十和田市を通って七戸へ行くことが出来、東北新幹線七戸十和田駅から帰宅しました。
今回の旅は、東北の自然の厳しさを教えられ、心に深く刻まれた旅となりました。しかも、雨でカメラが使えなくなるというおまけ付き。いつか、天気のよいときにリベンジしたいと思います。三浦哲郎の小説に登場する金田一温泉も行ってみたい。
4 大雪の青森
2021年の12月、奥州街道をずっと歩いてきて、いよいよ終点が近づいていました。26日に青森県の野辺地からスタートして、2日間で青森まで到達する計画を立てました。冬の青森では多少の雪は覚悟していました。が、これほど降るとは…。
この時は、初めからトラブル続きで、八戸発大湊行きの快速列車が野辺地駅のポイント故障のため、運休となり、次の列車まで待つ羽目になりました。
なんとか野辺地駅に着きましたが、雪が激しく降っています。計画に従って、今晩の宿の浅虫温泉を目指して歩き始めました。野辺地宿や常夜燈公園などを回って、町の西端の馬門地区で国道4号線に出ました。ここからは国道歩きです。
ところが、道路に雪がどんどん積もっていっており、歩道が歩けず、車道を歩かなければなりません。非常に危険です。また、列車運休の影響で出発時刻が遅れたこともあり、このままでは暗くなる前に浅虫温泉に着くのは不可能と判断しました。そこで、街道歩きは断念し、狩場沢駅から列車に乗って浅虫温泉に向かいました。残念。
2日目も激しく雪が降っています。本日も無理しないで、国道4号線を歩かなければならない区間を列車で行くことにし、野内(のない)駅まで列車で移動しました。ここはもう青森市内、青森駅まであと8kmほどです。もう安心です。
と思ったら大間違い。この8kmが大変でした。雪は1m先も見えないくらい激しく降っています。道路に雪が積もり、除雪しないと車が走れないくらいになりました。奥州街道が通っている合浦公園(がっぽこうえん)は、膝まで積もった雪のため入場できず。堤川を渡る旭橋は雪で埋もれていて、ラッセルして渡りました。やっとの思いで青森駅に到着。しかし、列車もバスも全て運休状態でした。地元の人に聞くと、「青森でもこんなに降ることは珍しい」とのことでした。
駅前で一休みした後は、もうひと頑張りして、アスパムなど、湾岸地区を巡りました。
翌朝は、降雪はおさまりましたが、相変わらず交通機関はストップ。駅周辺の施設に探索に出ましたが、連絡船十和田丸は、職員が通勤して来られないため休館とのことでした。道路を横断するのも大変で、それでも、なんとか頑張って西の方の油川宿を目指して歩いて行きました。
「きたのまほろば館」に行くと「よくもまあこんな雪の中こられましたね。」と言われながらも、入館できました。そして、なんとか油川宿まで到達。午後になるとバスも動き始めたので、無事、青森駅まで戻ってくることができました。
前回に続いて今回も、東北の厳しい自然の洗礼を受けました。このところ、バチが当たり続けているようです。しかし、よい思い出にはなりました。
5 津軽半島の大雨
2022年8月。今回が最後の奥州街道の旅のつもりでした。油川宿から陸奥湾の沿岸を蟹田、平舘と歩いて、奥州街道の終点、三厩湊に到達する計画です。
ところが、3回連続のバチ当たり。今回もまた、東北の自然の洗礼を受けます。奥州街道の旅は最終段でトラブル続きです。
8月9日。この日の天気予報は雨でしたが、翌々日は雨が上がる予報だったので、とりあえず油川駅にやってきました。結構強く雨が降っていますが、蟹田宿まで行けばどうにかなると考え、約20km、頑張って歩きました。
蟹田宿は、中村旅館さんの項でも述べましたが、太宰治の小説「津軽」に登場します。太宰は現在の五所川原市金木町の出身で、昭和19年に久しぶりに津軽に戻り、各地を旅します。蟹田では、友人のN君(中村貞次郎さん)の家でもてなし受け、仲間数人と観瀾山(かんらんざん)に登ったりして過ごします。この時は、穏やかな天気だったようです。
無事、宿(中村旅館さん)に着いて、風呂に入り夕食をとっていると、女将さんに「今、避難指示が出ました。避難しますか。」と言われました。私は荷物をまとめ、宿の人の車で近くの蟹田中学校体育館に避難し、一夜を過ごしました。これまで、避難所の開設に携わったことはありますが、自分が避難するのは初めてでした。自分の家が危機に瀕しているわけではないので、地元の皆さんには申し訳ないが、気楽な避難生活でした。
翌日は雨は小降りになったのですが、平舘の聞法寺の先の沢に鉄砲水が出て、通行不能という情報が入りました。仕方なく旅行を中止して、帰宅することにしました。
しかし、津軽線が不通になっていて、青森に戻れません。開通するまで待つしかないかと思い、駅前の「駅前市場ウェル蟹」に入ると、壁に時刻表が貼ってあり、蓬田村のコミュニティバスが蟹田駅まで来ることがわかりました。すぐ、蓬田村に電話で確認すると、本日も運行するとのことです。蟹田に来る時に、蓬田村と青森市の境の「後潟」というところまで青森市の市営バスが来ていることがわかっていました。そこで後潟まで行くか確認すると、後潟のバス停で、青森駅行きのバスに接続しているとのことです。やった!見事につながった。まるで太川陽介と蛭子能収がやっているテレ東の路線バス乗り継ぎの旅のようでした。
そして無事に青森駅まで着いたのですが、奥羽本線も不通だったので、バスで新青森駅まで行き、不通になりにくい東北新幹線(頼もしい!)で帰宅することができました。
悔しかったので、すぐリベンジを計画。土砂崩れの復旧を確認し、9月の連休を使って、蟹田から平舘を経由し三厩湊に到達。見事、奥州街道の旅を完結することができました。感動のゴールの瞬間は、後ほど紹介します。
今回はここまでです。歩くこと自体を目的とすると、雨も、風も、雪も、楽しみに変えられます。これが「旧街道歩き旅」のいいところです。皆さんもどうですか。
でも、あくまでも安全第一で。